福永壮志「山女」元町映画館no177
福永壮志「山女」元町映画館 このチラシの写真と、チラシのこの一行に釣られてやって来ました。「遠野物語」に着想を得た、唯一無二の物語」 結構込み合っていました。見終えて思いました。監督でも、脚本家でもいいですが、本当に柳田国男の「遠野物語」とやらを読まれたのでしょうか?もしも読まれたうえで、こういう時代背景で、こういうセリフ回しで、こういう演技で、こういう物語設定で、こういう映画(ボクは「映画」と呼ぶことに抵抗を感じますが)をお作りになったとしたら、作っている人や、広告を書いている人とボクとの間には、まあ、不可知の海が広がっているという気がしましたね。 いやはや、いろんな映画があるものですね。書くことがないので、青空文庫で読める柳田国男の「山の人生」の最初のお話を貼っておきます。有名な話ですが、これだけで、まともな作り手であれば「映画」が一作撮れると思うのですがねえ。 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で斫り殺したことがあった。 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰もらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻りに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。 この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕み朽ちつつあるであろう。 柳田国男にインスピレーションを得たというのであれば、柳田国男が書き残した世界に対する敬意を感じさせる映像にしていただきたいですね。文化庁だかNHKだか知りませんが、出鱈目は不愉快ですね。監督 福永壮志脚本 福永壮志 長田育恵撮影 ダニエル・サティノフ編集 クリストファー・マコト・ヨギ音楽 アレックス・チャン・ハンタイキャスト山田杏奈(凛)森山未來(山男)二ノ宮隆太郎(泰蔵)三浦透子(春)山中崇(寅吉)川瀬陽太(角松)赤堀雅秋(親方)白川和子(巫女のお婆)品川徹(村長)でんでん(治五郎)永瀬正敏(伊兵衛)2022年・100分・G・日本・アメリカ合作2023・07・04-no83・元町映画館no177追記2023・07・08 感想とも言えない感想を綴って投稿しましたが、案外多くの方の反応があって驚いています。元町映画館では、この作品が結構たくさんの方に見られているようです。めでたいことです。 ちょっと、誤解されているようなので追記しますが、ボクにはこの作品のなかに柳田国男の論考を基礎にして作られた痕跡がまったく見つけられなかったのですが、にもかかわらず、チラシの宣伝文では、あたかも、柳田民俗学の世界を描いているかのような煽り方をしていたことに呆れた結果を感想にもならない感想として書いただけです。 若い映画製作者や宣伝担当者が、たとえば柳田国男を読んでいないことを批判しているのではありません。そんなことは、はなから期待していません。ただ、自分が知らないことをネタに、知らない人のイイネを煽るのは出鱈目です。入場料を払って見に行っている人間もいるのですから出鱈目はやめていただきたい。そう思ったことを書いただけですよ(笑)。