ベルリンの穴蔵で
フリッツに出会ったのは30年以上前のことになる。25年前に東西ベルリンをへだてる壁が落ち、東西ドイツが統合される前だった。友人に連れられて、はじめてベルリンに行った。当時の西ベルリンは西ドイツの「飛び地」で、東ベルリンに囲まれた島のようなののだった。連れていってくれた友人もフリッツも元は東ドイツ出身、幼いときからの親友で、1960年代、ベルリンの壁ができてしばらく後に、いっしょに命がけで壁の下をくぐって、東ベルリンから西ベルリンに亡命してきた。ちょっとアジア的な風貌をもつフリッツは、初対面のわたしをやさしい微笑をもって迎え、まるで旧知の友人に会ったように抱きしめた。彼がパートナーの女性と住んでいた屋根裏アパートは、まるで穴蔵のようだった。床には何重にも古いペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁にも絨毯、部屋のドア代わりにも絨毯が下がっている。部屋には椅子もテーブルもなく、床のあちこちに、インド風の生地にカバーされたクッションが散らばっている。天窓からもれるうっすらとした光の下で、ロウソクだけが灯された暗い部屋。お香の香りがただよう(この部分、拙著「励ます弁当」からの引用)。フリッツは「どこから来た」とか「元気か」とかおざなりのスモールトークは省いて、いきなり精神的な核心に踏み込む。タバコを吹かし、ビールを飲みながら、昔の恋人の話、生き方の話、心の傷、、と話題というか、モノローグが流れていく。「自分はこの国に違和感を感じる、自分は本当はアジア人ではないかと思う」といって彼が取り出した本は「IGiNG」。「この本に真実が書かれている」と言われても、わたしには何のことかわからなかった。「IGiNGって何の事だか知らない」と正直に言ったら、「日本人のくせに知らないのか」とがっかりされた。後でわかったが、これは「易経」だった。易経だとわかっても、中身は知らなかったけれど。会話の向こうで流れていたのは、ドイターという作曲家のメディテーション音楽だった。西洋音楽と東洋音楽を巧みにミックスした、(薄っぺらいとも言えるかもしれないが)神秘的な雰囲気をかもしだす音楽。たとえばこれとかこれ。ペルシャ絨毯とお香とロウソクに包まれた穴蔵にこの音楽、現実から離れたシュールな世界。フライブルクに戻ってすぐに、このレコードを買い、日本に持ち帰った。当時、この音楽を聞いては、あの夢のような世界を憧憬した。実際には存在しない幻想のようなもの。その後、壁が落ち、東西が統合されて、ドイツも、そしてベルリンも変わった。たくさんのミュージアムが改装され、東側もシックになり、観光客が押し寄せる活気あるセクシー?な都市。穴蔵は(ここは元々西ベルリンだったけれど)大家によって大改装されて、光がたっぷり入る明るくてモダンなアパートになった。絨毯はあいかわらずあるけれど、食事も談笑も椅子とテーブルで営まれるようになった。心臓発作を起こして以来、フリッツはアルコールをやめて、合気道を始めた。ドイターの音楽も彼のレパートリーから消えた。彼のアジアへの夢はついに実現して、合気道グループの仲間と共に日本に旅行した。アジア女性への「誤った」幻想は、路上で酔っぱらって騒ぐ日本人の若い女性の姿を見て、破れたらしい。数年前に彼を訪ねたときには、白髪と白い髭を仙人のように長く伸ばし、脳卒中で片腕が麻痺したと「自慢」して、パートナーから「おおげさなんだから」と揶揄されていた。最近、ふと思い立って、先の友人にひさしぶりに電話をした。「フリッツが去年、入院したって言ってたけれど、その後、どうしてる?」と聞いたら、「え、君、知らなかったの?一年前に死んじゃったよ」。最後までタバコを吹かして、自宅で亡くなったそうだ。骨と皮のようにやせこけて。ドリスが言っていた。「たくさんの友人を失いたくなければ、自分が若くして死ぬしかないというのが、父の口癖だった」って。ドイターの音楽はOshoのブームに乗って流行った。お教祖のOsho、つまりバグワンの教え(キリスト教と仏教を合わせたような感じがする)は30年前の当時、ドイツでもとてももてはやされていたが、その後、バグワンの脱税行為などのスキャンダルが続いた。10年ぐらい前にインドに行ったとき、ついでにOshoの地、メディテーションリゾートがあるプネーに寄ってみた。町はえんじ色の袈裟(このセンターに参加するとこれを着なければいけない)みたいなものを着た、様々な国からの人々でいっぱいだった。プネーでドイターの音楽のCDを買った。安っぽいメロディーだとは思っても、ドイターの音楽にはどこかひきつけられる。心が軽くなったり、メランコリックになったり、遠い昔を思い出すような気分になる。CD「Silence is the answer」も最近、購入した。このCDの2枚目が、フリッツの家で聞いたレコードだ(上のYoutubeの曲を含む)。これらの曲を聞くたびに、彼の姿とあの穴蔵を思い出して、しばし幻想の世界にひたる。もう二度と経験できない、現実から離れた、あの不思議な雰囲気に。