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カテゴリ:甲斐鐵太郎の上高地讃歌
5月の上高地河童橋付近の梓川。穂高岳には雪が沢山残っている。 7月の小梨平付近。カラマツが芽を吹い夏景色が広がる。 梓川支流の小さな流れにイワナが泳いでいて人を恐れない。 5月の梓川と河童橋の向こう岸の景色。化粧柳が芽を吹いている。 7月の上高地。梓川の流れが回り込んで池をつくっており岩魚がいる。 (タイトル) 上高地讃歌-その3-登山とロマンチズムそして感傷主義 執筆 甲斐鐵太郎 (本文) 登山は英雄主義とロマンチズムだ。天然自然の美を歌うのは感傷主義でもある。このようなものがないまぜになっての登山である。これを登山雑誌が煽る。都会に暮らす若者は昭和40年代には山に繰り出した。夜行を塩山で列車を大菩薩峠そのまま歩いていく人が多くいた。大衆登山の黎明期には穂高でもそのようであった。 登山雑誌に登山をするモデルになっている若い女性を知っている。稽古事をつうじて妻と娘がともに知って大阪出身の人である。自身も山が好きで応募して選ばれた。夏山登山の編集は一年前に作業が行われる。あの山にはこの人ということでモデルとして登山する。NHKテレビでも女優に登山させて山の番組をつくる。それの雑誌版のモデルである。妻と娘は雑誌に掲載されたそれを見せられていた。いつまでも若くはいられないからモデルをしていられるのは長くはない。その人は大阪に帰った。妻は大阪で食道楽の大阪の街を案内されて喜んだ。 知り合いは何気なく上高地に遊びにいってそのまま奥穂高岳に登ってしまった。手回り品はわずかのジュースだけである。若い力には奥穂高は何でもない山であった。好天に助けられて奥穂高岳まで登った。 奥穂高登山がきっかけにしてこの人は本式に登山を始めて登山クラブをつくるにいたる。活発な活動をしたあとでの長い空隙があった。それが2年前に自分たち夫婦に昔の登山仲間を加えて表銀座の縦走をした。中房温泉から燕岳、大天井岳、槍ヶ岳へと尾根筋を歩く登山である。大天井岳から槍ヶ岳に向かわずに常念岳を経て安曇野に下る順路も表銀座コースを表銀座コースとすることもある。 70歳を前にしての夫婦そろっての登山であった。その後に夫の肺疾患で闘病生活が始まる。上高地からの奥穂高岳に刺激されてそのまま登ったことによって若いころは給与を山に費やした。山が縁で生活をともにするようになった二人である。妻の槍ヶ岳への憧れに夫は奮起して表銀座コースを歩くことにし、機会に古い登山仲間と旧交を温めることにした。念願は成就された。 その一年前にある事件があった。妻は山への憧れが急にわいてきて行きたい場所を探すうちに南アルプスの宝剣岳登山の基地となる千畳敷カールに目を付けた。ロープウエイで行けるホテル千畳敷に友人を誘った千畳敷に行く途中で夫は身動きできなくなった。急きょ甲府市の公立病院に駆け込む。そのまま一ヵ月の入院となる。肺疾患の治療が始まった。別の臓器でも疾患が見つかる。 病魔に襲われた翌年の5月には諏訪地方は7年に一度の御柱祭りがあった。私は塩尻駅前に1週間の滞在をした。夫婦の別荘は蓼科山麓の佐久側にある。空が真っ青な日に訪れた。秋にもう一度行った。夫婦の楽しみは老後に別荘で過ごすことであった。普段の住まいは東京の下町にある。 秋に訪ねると身体を冷やしてはいけないのだと冗談のように言っていた。病を苦にしていないようであった。一時間の滞在の間に鹿教湯温泉に宿を手配しておいとました。冬支度のために水回りの始末に来ていたのであった。 あくる年の五月には夫婦の別荘の近くまで足を運んだ。別所温泉に向っっていて時間が窮屈だったので顔をださなかった。2カ月のち、7月に事態は最悪のものとなった。 人の明日はわからない。知人のもう一人は脳溢血を患った。ほかに難病を併発したために身体の動きがひどくわるい。別荘にでかけて八ヶ岳連峰を眺めるためには付添いがいる。その人の楽しみがなんであったかは知らない。明日をも知れないとわかると人のその楽しみは置き去りにされる。 明日がわからないことは不安である。だれも明日がわからないから人はだれでもが不安なのだ。聖なるイエス・キリストはいう「汝明日を煩うな」と。 人には大きな願いもあれば取るに足らない楽しみもある。好きだった音楽も心が閉ざされると別のものになる。好きな料理だって好きな所だってそのようだ。 人の心はいつも悲しい。面白おかしくふるまっていても奥底は悲しい。そのようにできている。望まない出来事が幾重にも押し寄せることがある。 空の輝や、流れる白い雲をみても、森の深い緑に抱かれていても、風の歌を聴いても、人は悲しいことがある。人はやるせないむなしさと、苦しさに悶える。サトウハチロウがそのような詩をつくり加藤和彦が曲をつけた。それをザ・フォーク・クルセダーズが歌う。苦しさは明日につづき、むなしさに救いはない。やるせないモヤモヤは、空をながめ、空に告げて慰めて涙を流すしかない。一員の北山修は精神科医になった。悲しみをこらえて「あの素晴らしい愛をもう一度」と歌う。 山に行くのも林を散策するのも感傷と諦念が入りまじる。北原白秋は「落葉松」で「からまつはさびしかりけり、たびゆくはさびしかりけり、世の中よ あはれなりけり、常なれどうれしかりけり」と歌う。寂しく哀れであるのが世の中の常である。 2018-07-23-kamikochi-hymn-part-3-mountaineering-and-romanticism-and-sentimentism-writing-tetutaro-kai- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年07月23日 00時47分58秒
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