「白洲次郎の生き方」男の品格を学ぶ
馬場啓一 1999/05 講談社 単行本 217p 文庫本 2002/05 講談社文庫
Vol.2 No.0224 ★★★★☆
男・白洲次郎を追いかけるには一筋縄ではいかない。大和魂、英国紳士道、服飾哲学、酒、クルマ、農業、政治、貿易、田舎暮らし、ゴルフ、そしてプリンシパル・・・。この本のサブタイトルは「男の品格を学ぶ」となっている。「品格」という、半ば最近の流行語化している言葉はあまり好みではないが、白洲次郎を読んでいると、たしかに、男の品格というものを考えざるを得なくなる。
相変わらず農業は続けていたが、ある年の台風で田畑が流されてしまい、使い物にならなくなる。このため泣く泣く田畑を売った。その金で赤坂に土地を買い、家を建てて住んだ。p48
白洲が現・町田市に茅葺農家を買ったのは1942年(昭和17年)。そして、農家向け雑誌「地上」で対談して、自分が農家であることを強調しているのは1955年(昭和30年)。すでに13年間農家をしていたことになる。この時、白洲は近隣でテレビがあるところは自分のところだけだ、と言っているし、農業も早急に機械化を推進すべきだと強調している。
白洲と農業とのかかわりも、ある日突然押し寄せた台風の惨禍によって潰えてしまう。その爪痕はあまりに物凄く、白洲はこれ以上農業を続けることはできないところまで追い詰められる。そして、あっさりと田畑を売り払い、都心へと越してしまうのである。わずかばかりの敷地と屋敷だけを残して。
白洲にとって、これえは大いなる痛手であった。これまでやってきたことはなんだったのかという自問が、くる日もくる日もあったはずである。白洲次郎はこうして農業から手を引くことになる。
やめられる余裕がある人はいいさと、彼を批判するむきもあろう。確かにその通りで、農業しかない人々にとっては、さっさとやめて都心へと移ることができる白洲は、いい身分だと映ったはずだ。やっぱりお坊ちゃんさと。しかし、白洲にはもうこれ以上農業と付き合う余裕がなかった。それほど、この台風のもたらした傷は大きかった。204p
この台風は何年のことだったのだろうか。昭和30年代の日本農業は劇的変化を遂げている。機械化や化学肥料による生産性向上で、昭和45年になると、政府は減反政策をするようになる。白洲が自らのプリンシパルの原点としてみるような農村が日本社会から、急激に消えていったのだった。
白洲が目指したのは、あくまで日本人としての農業従事である。機械化や合理的な方法を取り入れながらも、日本には日本のやり方があると思っていた。英国的な農業の発想に対し、集約作業を要求される日本の米作りや畑仕事は別のものだ。
こういう日本の農業の現実の前にはカントリー・ジェントルマンという言葉は、かすんでしまう。念仏のようなものだ。農業がそのようなヤワな情緒的なものでないことを、白洲はよく知っていた。p202
ひとり白洲にすべての理想を求めることなど、もとよりできないことだが、白洲は決して隠遁して一言居士に甘んじているだけではなかった。時代とともに日本の中でいきていたのである。
昭和30年代になり、白洲の表舞台での活躍が影をひそめるのと、日本のモータリゼーションとは反対カーブを描き始める。人一倍自動車好きだった彼は、日本製の自動車にも関心を持ち、トヨタのパブリカ、スバルの4WD、シビックなど多くの国産車に挑戦する。とくに第一次オイル・ショックとほぼ同じ時期に登場したシビックなどは、かなり気に入った様子であった。また日本初の国民車として現れたパブリカは、基本性能とパッケージングに豊田なりの決意を感じ、評価している。p186
青年時代のブガッティやベントレー、晩年のポルシェばかりではなく、800ccのトヨタ・パブリカを愛でている白洲次郎を想像すると、なんとも微笑ましい。そしてまた、戦後日本のすさまじかった変化を思わずにはいられない。
これだけ書かれている白洲ではあるが、その実母や実兄についてはほとんどなにも知られていない。そして、英国時代にはひと月に現在の貨幣価値としての3000万円ほどを送りつづけたという父親は、1929年に始まる世界恐慌のの中で破綻し、晩年は、九州・阿蘇山麓に小屋を立てて住み、人知れずその中で亡くなったという。日向も日陰もある男、白洲次郎が生きていた。
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追記
何ページかメモするのを忘れたが、この本が書かれた段階では、白洲次郎のベントレーが、まだ英国の農場に保存されていることが記述されている。この記述は他にないので、涌井清春氏は、この本あたりでその存在を知り、難しい交渉のすえに、やがて日本への移送を可能としたのだろうか。