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テーマ:車に関するお話(10116)
カテゴリ:アンソロポロジー
「Pen」 ポルシェの美学 なんだか、毎日骨董ばかり見せられていた白洲次郎が、70歳を過ぎてからポルシェを買って乗りまわしていた気持ちが、少しわかったような気分(爆)。私は別に前々からポルシェが気になっていたわけでもないし、そんなにポルシェの魅力に圧倒されていたわけでもないが、あらためてこのような雑誌で特集を組んでもらうと、認識が深まる。 で、ふと考えた。力道山には力道山というコンセプトがあり、ロールス・ロイスにはロールス・ロイスというコンセプトがあるのに、「力道山のロールス・ロールス」と言った場合、新しい魅力が加わるのはどうしてだろう。まぁ、新しい魅力が加わるのはそれはそれでいい。だけど、単体の力道山や、単体のロールス・ロイスにはそれほど関心がないのに、複合作戦で来られてしまうと、イチコロになるのはなぜなのだろうか。 クルマのことはさておくとして、次郎と正子、と並べ称されることによって魅力が倍加することはなぜなのだろうか。次郎単体、正子単体で、物事をすっきり片付けることはできないのだろうか。相対的な存在から、絶対的な存在へ。そして、一から無へと、消えていくことはできないのだろうか。 想いを巡らしてみると、骨董やポルシェ、といった外的な世界に引きづられているかぎり、どうも一から無へと以降していくのは難しいようだ、ということがわかった。骨董から「瞑想」へ。ポルシェから「瞑想」へ。この回路を探し出して自らのものにしないと、価値の相対化からは逃げるいことができないようだ。ホンモノだの贋物だのという論争は、瞑想への回路がつながっていないから生まれてくる疑義なのではないか。 「天才設計者が描いた完璧なるフォルム」「ポルシェの美学」 雑誌のタイトルとしてのコピーとしてならこれはこれで構わないが、「天才」や「完璧」などの言葉の中に、私は根本的に「美学」が破綻する原因が最初から含まれていると感じる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.21 21:55:17
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