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カテゴリ:アンソロポロジー
そもそも本に書かれていることを全部「所有」することなどできない。もともとの書き手であれば、それは「私の」ということはできるだろう。しかし、その本が個人的な日記やメモのように秘されているものでなければ、どこかの誰かが、一読者として、勝手な理解をして「私の」本として個人的に「独占」することは、否定できるものではない。 「白洲正子 私の骨董」と言った場合、短縮して言えば「白洲正子の骨董」ということになるのだろうか。「白洲次郎のベントレー」とか、「ジャニス・ジョップリンのポルシェ」と言ったり、「力道山のロールス・ロイス」、「ジョンン・レノンのサイケデリックカー」という場合は、もともとの存在に新しい付加価値がプラスされている。 この本における「骨董」とは、何か。まず、白洲正子が作りだしたものではなさそうだ。すべて他者によって作られたもので、ほとんどは彼女が「買った」ものだ。そして、ロックシンガーたちのクルマのように、何かの手を加えたものではない。むしろ、自分の手に渡ってきた時とほとんど変わりなく保存することに意識は向けられる。書きくわえたり、割ったり、作りかえるなんてことはタブーだ。 そして、そのほとんどは、数が少ないことを良しとする。大量生産ではなく、一品一品で、この辺は、出版物などは多いに趣を異にする。「私の骨董」と言った場合は、ひとつひとつの「骨董」は、もし倉や箪笥の奥深くしまわれてしまった場合、他者にとてのその存在は、宇宙の中から消えてしまったと同じことになる。 骨董の場合は、積極的行動としては「買う」という行動以外にない。「買い」「所有」する。そして「売る」場合もある。ふさわしい値段で「買う」ということは、それにふさわしい価値を見つけることだろうし、「所有」することによって、新しい付加価値がプラスされるかもしれない。白洲正子が手元に3年間「所有」していた、などということによって、その価値が上がるかもしれない。 しかし、この本で白洲正子は「私の骨董」と言うことによって、ひとつひとつの骨董に付加価値をプラスしまくっている、ということではないだろう。もちろん値上がりしたものもあるだろうし、逆の場合もあるにちがいない。 そしてこの本を読んで気づくことは、たった一個の骨董だけを語っているわけではない、ということ。つまり、数に限りはあれぼ、いくつかの骨董が語られているということだ。この本については数十個か数百個の骨董が紹介されているわけだが、白洲正子のもとに集まってきたいくつかの骨董たちが醸し出す世界こそ、白洲正子が「私の骨董」と言わんとした世界であろう。 ひとつひとつの作品については、もともとの作者があるのだから、「私の」という場合、すこし限定がつく。しかし、2個か3個の別個の骨董が集まってきた場合、そこには、新しい宇宙観が現れてくる。宇宙観というと大袈裟であれば、美的センスとでもしておこうか。数十個か数百個、すくなくともこの写真集に集められた骨董たちは、その組み合わせの中で、もうすでに「白洲正子の骨董」という以外にない世界を作り始めている。 そして、彼女が言いたかったのは、ひとつひとつの骨董との出会いを語りながら、本当は「骨董道」のような「道」のことだったのではないだろうか。一個一個、それぞれに強烈な個性を発しながらも、それらが配置されることによって、新しい何かの価値を生み出している。それは所有を超えた何か、形あるものを超えた何か、「私」を超えた何か、を表現しようとしているのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.08.20 13:43:02
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