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テーマ:江戸時代を読む!(129)
カテゴリ:江戸時代を知る
『耳嚢(上)』から、印象に残った話を現代語訳で紹介する。
浪速の鴻池善右衛門という人は大坂第一の豪家で、大小の諸侯の用金など引き受けないものはなかった。天明元年(一七八一)、牧野越中守殿が所司代を仰せつけられ、土岐美濃かもるが御城代を仰せつけられたが、まだ赴任せず江戸にいられた折から、善右衛門が、伊勢参宮をして江戸表へ出てきたので、牧野家は親しいわけでもあるのか、浜町中屋敷の長屋を河岸、家来扱いで善右衛門が住んでいたが、その頃、金銀の用向きで世話になっている諸家からの饗応が大変なもので、毎日、菓子・珍味などを給わっていたという。ある日、、善右衛門が借りている長屋の前で、家中の子供が大勢遊んでいたのを見て、手代に言ったことには、 「あちこちからいただいた菓子が多すぎて捨てるしかないから、あの子供衆に振る舞うのがいいだろう」 との旨を言ったので、手代どもはその子供を呼んで菓子を出し、こういう訳だと話したところ、その子供が言うには、 「我々は侍の子である。捨てるという菓子を食うことができるものか。善右衛門はいかほど富貴であっても元来町人だ。不埒な申し状だ」 と言って、菓子を投げ返し、あるいは石を投げなどしてもってのほかの騒動担ったので、手代はいろいろと詫び言をして、 「全くそのようなわけではございません」 ということを申したので、さすがに子供は了見したと言うことだ。 楽天ブログランキング←クリックしてください 楽天会員以外の方のコメントは「輾転反側掲示板」へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.10.21 02:26:39
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