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カテゴリ:世界とモンゴル
キルギスの映画「馬を放つ」を見てきました。キルギスの遊牧民を描いている映画ということで興味を持ちました。
ベルリン国際映画祭やアカデミー賞外国語映画賞キルギス代表を獲得しており、優秀な映画ということなのでしょう。 ですが、この大都会東京で上映しているのはなんとたったの一か所だけというのは、いくら素晴らしくても商業的には成功しない(要するに見に来る人がほとんどいない)と思われているからなのでしょう。 これがパンフレットの表紙です。 場所はマイナイー映画の聖地ののような神保町の岩波ホールでした。週末にもかかわらず、この小さな映画館でも満席にはとても及びませんでした。東京で上映1か所なのに、ちょっと寂しいです。 私は新聞の映画紹介のコラムで見て、遊牧民の文字に惹かれ見に行きました。ストーリー的には確かに「すごく面白いか?」と聞かれれば、返事が難しそうです。 ですが、私の興味はそんなストーリーではなく、景色や言葉、習慣などにモンゴルとの類似性が見られるかどうかにありました。そういう意味では興味深かったです。 まず景色。草原ぽい風景は出てきますが、モンゴルのような大草原ではありません。そして景色は常に高い山に囲まれていました。天山山脈が近い国ですから、イメージは山に囲まれた草原です。 モンゴルももちろん山はありますが、大体モンゴルで遊牧民の映画を撮るとなれば大草原を舞台にするでしょうね。 主人公は既に遊牧民生活ではなく、固定式家屋(ゲル地区にあるような固定式家屋)に住んでいます。その内部の様子は違うと言えば違いますが、なんとなく似てるなと思いました。 言葉については、そもそもモンゴル語がわからない私ですから、聞いてわかるはずもないのですが、少しは共通点はありました。 例えば数字の5万というのが出てきましたが、モンゴル語では50(タヴン)千(ミヤンガ)と言うところを、50の方は聞き取れませんでしたが、千の方は確かにミヤンガに聞こえました。(もちろん本当の発音はこんなカタカナ通りではありません) これは納得です。キルギスはテュルク系ですから、トルコ語に近い言葉だと思いますので、5や50というのはその言語で話すでしょう。 が、遊牧民は元来、チンギスハーンやその前の匈奴(モンゴルではフンヌ)の時代から、10進法で人々を管理していましたから、100とか1000、10000という言葉はユーラシア遊牧民には共通言語だったのだと思います。 遊牧民社会は文字通り遊牧する、つまり移動社会なので、日本や漢人社会のように「土地を管理する」のではなく、人を管理してきました。 なので1000年以上も前から、ハーンなど上に立つ人は、100人の管理集団を持ち、それを10束ねて1000、それを10束ねて10000として管理してきました。 なので、個別の数字(1から10まで)はともかく、千や万は遊牧民共通の言葉になっているのでしょう。 また女性の名前もドルマーだったかな?とにかく女性の名前にマーがついていたので、これもモンゴルと同じだと思いました。 他にもドルジというお馴染みの名前もありました。これはチベット仏教から来た名前ですから、いろんな地域にもあるのでしょう。 というわけで、内容に関する解説を期待された方には申し訳ありませんが、私が申しあげることができるのはモンゴルとの関連であって、映画評論ではありません。 この映画を見て二つのことを思いました。一つは、こうした遊牧民の映画をどの国であれ、どういう内容であれ、もっと世界に広めてほしいなということです。 もう一つは、こんなに世界的に立派な賞をもらった作品であっても、そして巨大都市東京であっても小さな映画館一つで上映するだけなのか、という寂しさです。 モンゴルにもいい映画はたくさんあると思いますが、なかなか世界進出とはいきません。 いつかモンゴル映画が、東京やニューヨークで上映されることを楽しみに待っています。遊牧民と資源開発の葛藤でもいいし、伝統的生活と都市化の葛藤でも、十分にグローバルな視点での題材になると思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.03.26 23:37:57
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