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カテゴリ:喫茶店
とまあ、このままだと話は尽きることがないので、ようやくマンガというメディアにおける識別性の高さという話に戻ることにします。が、いざマンガにおける作家性はどういう要素によってもたらされるのだろうかと改めて考えるとどうもよくわからなくなるのです。既知のマンガ家の作品であれば未見の作品だって、一目見たらだれの手によるものか目星を付けることは、百発百中とはいかぬまでもそれなりの確率で言い当てられると思うのです。その大部分は登場人物の造形や写真を用いるなどの背景の描き込みなどに個性を見出すことができることにあると思います。マンガのキャラクターというのは肖像権と同様の権利を有しているから、それを模倣することは厳しく禁じられているのです。パロディだったり同人誌などでキャラクターが借用される場合もあるけれど、それは極限られたジャンルに過ぎず、同人誌はごく限定された内輪でしか流通しないのであります。次に吹き出しの形状やコマの割方といったマンガに特有の表現方法にも独自性を見出すことがあります。石ノ森章太郎のような大胆な大ゴマの使用や滝田ゆうの絵による吹き出しだったりすると一目で作家を言い当てられそうです。物語の展開だったり、ギャグのセンス、奇妙なセリフ回しなどにも作家の痕跡を認められる場合があるとは思いますが、絵ほどには直感的ではないかもしれません。それでもマンガ表現には作家性を示す痕跡が多様に認められるわけで、そうしたマンガの特性に敏感なマンガ家は、個性的なマンガ家として認知し易いように思うのです。しかし、作家性が鮮明であるからといって必ずしもヒット作を放てるとは限らぬのが難しいところで、普遍性と独自性をうまく操作することがマンガ家には常に要求されるようです。
『三丁目の夕日』(『三丁目の夕日 夕焼けの詩』)(既刊67巻)(小学館, 1974-) このマンガが映画化されたことは当然知っていました。昭和33年の東京下町がVFXなるコンピュータによる映像にて再現されたことが話題となり、数々の映画賞を受賞したという報道は耳にしていました。劇場上映されヒット作となり続編まで作られ、しかもテレビ放映された際も高視聴率を獲得したというから、かなり多くの人々から支持されている映画であることは間違いないようです。といった書き様からお察しいただけると思いますが、そうぼくはこの映画版を見ていないし、当面見る予定も、見たいという意志も持ち合わせていないのであります。実際に原作マンガが郷愁やら懐古やらを喚起するだけの内容であるかどうかはともかくとして、原作を読んだことのない方がこの映画版をご覧になるのだとすれば恐らくはVFXで再現されたノスタルジックな風景に接したいという欲求によるからなんでしょうねえ。でも、昭和33年っていうと現在は60歳を超えた方が生まれたばかりの時代のことで、その世代の方にとって懐かしいと感じるのを否定するわけではないけれど、より年少の人が感傷に浸るのはちょっと違うと思うのです。単に当時の風景だったり生活様式なり家電などの道具類などに「昭和」を感じるのは勝手だし、気持ちも分からぬではないけれどけして必ずしもいい時代だったとは思えないのです。列車にしたってせいぜい扇風機が回るだけで暑くてかなわなかっただろうし、冷蔵庫や洗濯機なんかも使い勝手が悪かったに違いありません。そんな中でも「昭和」への強い愛情が不便さを凌駕するような方には敬意を表するけれどぼくは今更過去に憧憬を抱く気はさらさらないのでありました。ってかなり無理してるなあ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020/12/06 08:30:06 AM
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