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2021.06.09
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​​​​​​​​​​​​​​​​​​「根本復帰」

1971年1月10日
江原道・江陵教会(聖日礼拝)



 マリアは聞かれた言葉に対して従順に、「この子供は誰の子供である」と答えることができない立場でした。「神の能力で、聖霊によって身ごもりました」と言わざるを得なかったのです。マリアがそういう話をしたとしても、どこの男性が、聖霊によって身ごもったということを信じたでしょうか。ヨセフにとっては、自分が命をかけて救ってあげたにもかかわらず、命の恩人である自分に対しても、その正体を隠して弁明し、偽っていると思ったでしょう。このような事情から、内的立場においてマリアとヨセフの間には、言うに言えないトラブルがあったことでしょう。

 イエス様の誕生を巡る内外の事情

 また、ヨセフが婚約の宴会もしないで、誰にも知られないようにマリアをそっと連れて来たという事実が、親戚や村人達の注目の的にならざるを得なかったのです。そういう状況だったので、村の子供達や友達にしても、不思議な目で見るより外はなかったのでした。

 そのような中で日にちが経つにつれて、ヨセフとマリアの二人の間には、お互いの理解を越えた内的トラブルがあったでしょうし、そのような事実は自然に噂になるようになったのです。

 そんな不思議な噂が聞こえるようになると、ヨセフの親戚や兄弟達は、ヨセフにその噂について尋ねざるを得なかったのです。また父、母や叔父も尋ねざるを得なかったのでした。その度毎にヨセフは静かに自分自らを弁明して、マリアを弁明してあげる立場には立たなかったために、はっきりしたことは言えませんでした。ヨセフの優柔不断な態度は一層、不自然さを増すようになりました。そのようにしては、噂は村中に、更には近隣の村にまでも広がっていったのです。

 そういう立場で一か月二か月と時が過ぎるにつれて、イエスを身ごもったマリアのおなかは大きくなってゆき、マリアは恥ずかしくて外に出ることができず、環境から追われざるを得なかったことを、皆さんは知らなければなりません。その時、マリアはそのような環境に留まるよりは、むしろどこかへ飛んで行くことができるなら、飛んで行きたかったのであり、土の中に消えることができるならば、消えたかったのです。しかし、そうすることもできない日々を、十か月の期間過ごしたのでした。

 その期間、マリアは神の前に祈祷もしたことでしょう。人気がない殺伐とした砂漠とか、誰も知らない所に行って子供を産む道があるならば、その道を行くことが彼女の願いであったでしょう。

 もしもマリアがそんな環境の村で子供を産むようになれば、どれほど噂が広まったことでしょうか。ヨセフの両親やヨセフの親戚がどのように見たでしょうか。またお祖父さんお祖母さんがいたならば、彼等はどのように見たことでしょうか。マリアが子供を産むとき、喜びでもって讃美しなければならないにもかかわらず、かえって疑わしい思いで見るようになるというのは問題でした。

 マリアとヨセフはこのように複雑多端にして皮肉な環境の中で、臨月がだんだん近付いてきたのでした。このような時に、ちょうどローマの皇帝からユダヤのすべての民は戸籍登録をするようにという命令が下ったのです。そこで、マリアはダビデの城に向かって行く途中の、ベツレヘムで臨月を迎えるようになりました。これがイエスの誕生をめぐる内外の事情でした。

 どんな男性であっても、自分の婚約した女性が身ごもれば、その経緯を尋ねないでしょうか。身ごもった問題に対して、問題を提示しないだろうかというのです。もちろん、ヨセフは天使が現れて教えられていたので、内心では理解はしようとしましたが、その理由を知りたかったのです。そのような中において、イエスは地上に生まれました。そのイエスにヨセフは、常に喜びの心で接しなければならなかったにもかかわらず、そうすることができませんでした。実の子でない息子に接しなければならない父の心情は、そんな子供を持ったことのない人には、分からないかもしれません。

 イエス様の悲惨な幼少期

 ヨセフは実父でない立場で、婚約していたマリアの体を借りて生まれたイエス。十か月前から心配の種になっていたし、それ以後もマリアとの間に内心の苦痛を惹き起こしてきた、問題のイエスの誕生というのは決して喜ばしいはずがありませんでした。神が教えてくれたことを考え、喜びで接しなければならないことも知っておりましたが、それよりも生理的な感情が先に立ったために、イエスに接するたびごとに喜びでもって接することができず、歓喜する立場で接することができなかったのです。それが、実父でないヨセフの立場でした。

 イエスはそのような複雑多端な三角関係の中で育つしかなかったのでした。ベツレヘムで誕生したイエスが、エジプトに避難して育たなければならなかったのは、もちろんヘロデ王がイエスを殺そうとしたこともありますが、このような事情もあったために、ここ(ベツレヘム)に戻ることのできないイエスの事情があったことを、あまりにもよく知っておられた神の恵みの故であったと見ることができます。

 それで、エジプトで三年余りの歳月を過ごし、帰って来る時も、自分の故郷に帰ることができませんでした。ガリラヤの海辺のナザレに行って育つようになったのです。自我に目覚めたイエスが、父母であるマリアとヨセフの間が何だか知らないが、自分故に問題が生じ、家庭が良くない雰囲気に包まれていることを察したのでした。このように、心地良くない環境でしか生きることができないイエスの事情ではなかったかということは、当然考えられることです。

 そのために、たとえイエスが母親の膝の上に抱かれたとしても、必ず実父でないヨセフの気配を見なければならないし、マリアも喜びの顔でイエスに乳を飲ませることができませんでした。ヨセフがいる場合には、更に恥ずかしい心で乳を飲ませなければならない立場でした。このような三角関係の中で育ったイエスであることを、皆さんは知らなければなりません。

 聖書にはないのですが、皆様が知らなければならないことが他にもあります。祝祭日になれば、村の子供達は皆きれいな服を着て、おいしい食べ物を食べるのですが、イエスはそのたびごとに、誰よりも孤独な立場に立って、悲しみを感じざるを得ない生活をしたのでした。マリアは、イエスを他の息子・娘よりも、もっと良く食べさせてあげることができず、もっと良くしてあげることのできない立場でありました。そのようなことをヨセフの気配を見ながらしなければならない、寂しい立場から寂しい試練を経てきたということを、皆さんは知らなければなりません。イエスはこのような生活の中で目覚め、育っていったのです。

 聖書には、ヨセフとマリアが十二歳のイエスを連れてエルサレムの神殿に上って行った記事があります。その記事を見ると、父母であるヨセフとマリアがイエスをエルサレムの神殿に残してしまい、三日後にイエスを尋ねて会ったと書かれています。世の中に、どんな父母が、十二歳になった自分の息子を一人残して帰って来るでしょうか。常識的に見たとき、世の中でもこういうことはあり得ないことです。

 では、何故そのようになったのか。ヨセフはイエスに対してそうすまいと思っても、どうすることもできず、他人の息子として扱ってしまったというのです。常に、イエス故に問題となったのでした。

 マリアはエルサレムに上って帰って来る時に、イエスをその場に残してきたことを知っていました。しかし、ヨセフの気持ちを察せずにはいられなかったのです。ヨセフがいい顔をしていない状況の中で、マリアがイエスを連れて帰ろうと話をするならば、ここには反発が起こり、問題が生ずるようになったために、マリアは知っていながらも、ヨセフの気配を見ながら、そのまま付いて行ったのです。そのようにして一旦家に着いてから、三日後に再び出掛けてイエスに会うようになりました。ヨセフも静かに考えてみると、幼いイエスを一人残して来たことは、人間として、なすべからざることであるので、イエスを連れて行かざるを得なかったのです。

 その時、イエスは神殿で学者達と聖書の討論をしておりました。それを見てマリアは、「あなたは、どうしてこんな事をしてくれたのですか」(ルカ二章四十八節)と尋ねました。そうすると、イエスは「どうして私をお捜しになったのですか。私が自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのでしょうか」(ルカ二章四十九節)と言ったのです。その言葉はどのような意味から言ったのでしょうか。明らかに、父母に対する反駁からでした。父母の立場で、息子を三日も置いてどこに行く、今更帰って来て何を言うのかとい意味です。

 マリアの立場

 また聖書を見ると、弟子達がイエスに、「あなたの母上と兄弟達がお会いしたいと、外に立っておられます」と言うと、イエスは「神の御言を聞いて行う者こそ、私の母、私の兄弟なのである」(ルカ八章二十一節)と言っています。この言葉は、イエスの父母が神の御旨通りになした、という意味でしょうか、なさなかった、という意味でしょうか? こういう言葉を考えてみる時、ヨセフの家庭でのマリアは、イエスを中心として神の御旨に侍ることができなかったということを、皆さんは知らなければなりません。

 マリアはイエスが家出をした後、ガリラヤ地方のカナで行われた婚姻の席でイエスに初めて会いました。イエスは親戚の家で宴会をしていることを知って行ったのですが、そこでマリアと会ったのです。そこで、マリアがイエスに「(宴会場の家に)ぶどう酒がなくなりました」と告げると、母親であるマリアに対して、イエスは「女よ、私と何の関わりがありますか」(ヨハネ二章四節)と反駁しました。この言葉の中には、イエスが誰にも言うことのできなかった隠れた内的な事情が絡み合っていたということを知らなければなりません。

 イエスにも母親がおり、お祖母さんがおり、その隣の村には姉や妹がおり、その他にも男女の親戚がいたにもかかわらず、三十歳に近くなっても結婚すらすることができなかったのです。そうではなかったでしょうか。三十歳になった独身者を大工の助手だけをさせながら、結婚の心配をしなかったということは、マリアが母親としての責任を果たしていなかったということです。どんな困難があったとしても、マリアはイエスの行く道を整えてあげ、これから天の御旨を抱えて行くべきイエスである故、内心心配しながらイエスの未来に対して深く相談しなければならなかったのです。「あなたはいかなる道を、どのように行かなければならないのか」と言いながら、母と息子の間に互いに深い関係で密かに工作をしながらも、御旨をなすことができる道を開拓しなければならなかったのです。しかし、このように、マリアはイエスの行くべき道を分別してあげる責任を果たすことができなかったのです。

 皆さんがここで一つ知らなければならないことは何でしょうか。今日、堕落したこの地上に、神の愛を受けることのできる息子が現れなくては、神の愛を受けることのできる娘は出てくることができないのです。創造原理がそうです。神はアダム、即ち男性を先に創造されました。そして男性を見本として女性をつくられたのです。そのために先ず、この地上には神が愛することのできる息子が生まれなければなりません。
 ところが、そのような息子がこの地上にいましたか。いなかったのです。従って神は愛する息子を持たなければならないのですが、この地上にそのような息子を誕生させるためには、女性の体を借りなければなりません。
 では、マリアという人は、どのような立場に立った人でしょうか。神の前に端女(はしため)です。マリアは神の側に立ちましたが、元来天使長の血統を通して生まれた女性です。天使長がサタンになったのです。マリアは堕落した女性の中において、天の方に帰って来るための歴史上の最初の女性でした。

 天使ガブリエルがマリアに現れて、「あなたは身ごもって男の子を産むであろう」(ルカ一章三十一節)と告げた時、マリアは「私はまだ男を知りませんのに、どうしてそのようなことがありえましょうか」(ルカ一章三十四節)と答えました。この時天使が「神にはできないことは何一つありません」(ルカ一章三十七節)と言うと、マリアは「私の主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ一章三十八節)と言いながら、神の御旨をなすべき道があるならば、既に命を懸けて全てを覚悟して出て立った身であるから、何でも担当することを誓いました。それでマリアは、今まで神を裏切ってきた歴史において、神の為に死を覚悟して立った最初の女性となったのです。

 マリアがこのような立場に立ちえたのは、体面とか威信とか生死の問題を越えていたためです。そのような決意をせずしては、到底それを受け入れることができなかったのです。既に自分には婚約した男性があり、運命が決定されていた状況であるにもかかわらず、こんなことがあるということは、家系を辱しめることであり、自分の威信を地に落とすことです。しかし、その道が神の御旨であることを知って、全てを捧げて生死を覚悟しながらそれを受け入れたのです。そのようにしてマリアは、歴史上最初に神の御旨に接することのできる女性として登場したのです。

 マリアは、天使長側に立っている僕、天使長の娘でした。神はこの地上に必ず神の息子を送らなければなりませんが、女性なくしては産むことができないので、神の貴い皇太子を送るのに、仕方なしにサタン側の女性の体を借りたのです。神がそのようにしたのは、喜んでしたことではなく、女性がいなくては、この世界を祝福できる子供を産むことができないが故に、仕方なく、僕の体を借りて、イエスを誕生させたのです。
 マリアは僕です。マリアはイエスの母ではありません。イエスの母の立場に立ってはいましたが、マリアは神がイエスを生むために仕方なく借りた女性なのです。今日、マリアを崇拝しておりますが、それは良いこととは言えません。マリアの体を通さなくては神の息子を誕生させることができなかったために、そのようにしただけの話です。

 神側の息子を立てるための蕩減復帰摂理

 では、イエスとは誰なのでしょうか。アダムの身代わりです。失ったアダムの代わりです。アダムが堕落したために、神の愛の圏内から再び取り戻すために探し出されたアダムです。それ故、このように生まれたイエスは皆さんとは違います。では、イエスは皆さんとどのように違うのか、そして何故メシヤとなるのか、また何故神の息子となるのかというのが問題です。マリアもサタンの血統を受けた堕落した後孫です。マリアが神の御旨に従って来たといいますが、サタンの血統を通して汚れた女性の体であるために、そういう女性の体を通して生まれたイエスも、汚れた体になるのです。それで、サタンが讒訴することができるのです。

 それ故に、神はそれを蕩減するために歴史的な闘いをしてこられたのです。アダム家庭においては、カインとアベルが闘いました。この兄弟は大きくなって闘いました。その闘いは何かといえば、兄弟の立場を切り換えるための闘いでした。結局、弟の前に兄が屈伏しなければなりません。それを詳細に話せば時間が多くかかりますが、その話をしばらくしてみたいと思います。

 愛の結実体として息子・娘は、一人、二人、三人、四人、このように順番に生まれてきます。それで、父母の前に縦的に立つようになります。一組の父母の愛の実は、一つの立場から一列に立つようになります。兄がいれば弟は順次に立つようになります。ところが、アダムが堕落することによって、カイン、アベルは横的な立場に立つようになりました。カインとアベルはお互いに横的な立場、即ち横に並ぶようになりました。愛の実が二つになったのです。

 本来、創造原理によれば愛の実が二つになりえるでしょうか。原則は一つの実とならなければならないのに、二つになったために、一つの実の立場に立ったという条件を立てなければなりません。それには、どのようにすればいいのでしょうか。この地上に神の愛の結実として生まれるには、サタンを中心として生まれるようになっておりません。誰を中心として生まれなければなりませんか。先に神を中心として生まれなければなりません。ところが、先にサタンを中心として生まれたのです。サタンを中心として先に生まれたカインが兄となりました。逆になったのです。

 本来の息子・娘は神を中心として、神の愛によって生まれなければなりません。全部神の息子・娘にならなければならないのに、最初に生まれたカインはサタンの息子でした。全ての神の息子・娘の立場に立たずしては、神が人間を治めることができず、人間も神と共に幸福な生活をすることができないのです。ところが、二つに分かれたので、サタン側にいる兄は、仕方なく神側の弟に屈伏しなければなりません。

 何故そうしなければなりませんか。原理的に見る時、エデンの園でアダムと天使長が堕落しなかったならば、神を中心としてアダムと天使長が一つになったことでしょう。三人が一つになったのです。まず神とアダムが一つにならなければならないのに、一つになることができませんでした。これが堕落です。

 アダムが神と一つになることができず、神の息子になれなかったために、神も完全な生命の要因を持つことができず、完全な愛を持つことができませんでした。アダムが神と生命を連結して愛することができず、サタンと命の関係を結んでサタンと共に愛を知ったのです。これが問題です。

 アダムが神の愛を中心として神の生命に連結され、完成したアダムになっていならば問題は全て解決されていたでしょう。そのようになっていたならば、アダムは神の愛を受けていたはずですが、堕落することによって神の子女としての立場を失うようになりました。そうしてアダムはサタンの命を受け、サタンの愛を受けました。

 そのために復帰路程において、まずしなければならない事は何かと言えば、アダムは神と一体となることです。一体とならなければなりません。一体とならずしては命が連結されません。その後にはアダムと天使長、神と天使長が一つにならなければなりません。これが原則です。命の順序が神からアダム、アダムから天使長へと連結されなければなりません。従って、神もアダムを愛し、天使長も愛さなければならないのに、堕落によって、その反対になったのです。

 それ故に、これを復帰しようとすれば、愛する立場に立たなければならないので、屈伏しなければなりません。兄の立場にいる人は弟の位置にいる人に屈伏しなければならないので、弟と兄の立場を切り替える歴史が、今までの復帰摂理歴史だったのです。

 怨讐を愛さなければならない理由

 皆さんが一つ知らなければならないことは、サタンが今まで罪悪史の源泉となってきたのですが、イエス様が何故「怨讐を愛せよ」と言わなければならなかったのかということです。

 本来、サタンは天使長でした。ところが、その天使長が「神は全知全能の絶対者ですから、ご自身が立てた法度を中心として解決しなければならないでしょう。私は法を犯してサタンとなったのですが、神は全知全能の絶対者ですから、ご自身が設定した法に基づいて実践しなければならないでしょう」と言うのです。

 その法はどのようになっているのでしょうか。神は創造当時から完成した立場で、天使長を愛する立場に立たなければならないという法を立てたのです。それで、完成した後も天使長を愛さなければならないのです。

 ところが、長成期完成級で堕落してしまいました。完成段階から、人間と天使長が堕落してしまったのです。しかし、神は完成段階で天使長を愛するように天地の法度がなっているために、天使長自身は堕落したけれども、神はその法度の通り、完成した立場で自分を一度愛さなければなりません。それ以前には、完成した神として登場することがてきないと言うのです。結局、サタンは、「ご自身が完成した立場で、私を一度愛したという条件を立てずしては、あなたの御旨はなされない」と言いながら、食い付いてくるのです。

 その後には、人間に対して食い付いてくるのです。神は全知全能であられるから、神の息子が完成していたならば、御旨は成されるのです。それ故、サタンは「人間が完成した立場、完成した息子になったとするなら、あなたの息子であり、あなたの偉業を相続する者であるために、その完成した立場に立つ息子も完成した立場から、僕である天使長を愛するようになっているのではないですか。ところが、いつ完成した息子として、私を愛したことがあるでしょうか」と言うのです。そのために、六千年間かかったのです。

 神が完成した日を迎えるその日は、人間が完成する日です。人間の完成と共に、神が完成した立場に立たれるのです。それ故に、アダムの代身として送られたイエスが完成した立場に立って、この全体を相続することができたならば、神の完成が始まるのです。これが即ち、神の完成であると同時に、人間の完成となるのです。

 それ故、神が完成した人間である息子の心の中に入って、その息子を通して天使長を愛したという条件を立てなければ、天使長を追い出すことができません。そのような事情を知っていたイエスは、神が四千年間、恨みとして受難の道を歩んで来られたのは、この一つの完成基準を解決しなかったためであるということを知り、自分が十字架の死の道を行くことがあったとしても、この恨みを晴らしてあげなければならないという、かわいそうな事情をもつ立場に立っていたのです。

 それ故に、イエスは怨讐に対して、「父よ、彼等をお許しください。彼等は何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二十三章三十四節)と、恵みを願って行ったのです。自分を殺そうとする怨讐に対しても、自分の命を奪っていくその立場においても、イエスは怨讐を愛さざるを得ない心をもって、祈ってあげたのです。愛したという条件を立てたのです。

 それで、神がサタンに、「私の息子は死ぬような立場においても、あなたを愛した。命を捧げる立場においても愛したので、愛の中の最高の愛をなしたではないか。あなたは天使長の立場から堕落してサタンとなったが、本来天使長の立場にいるあなたに対して、主人としてやるべきことを成したので、神の息子の権威を持って完成の愛をなして余りあるではないか」と言うことができるし、その時サタンは「はい」と答えざるをえないのです。

 それで、「本来人間は完成した息子であるから、サタンであるあなたは、彼を愛すると共に、彼に絶対屈伏しなければならないし、絶対的に彼をあなたの体のように愛さなければならないではないか。あなたも愛しなさい」と言えるのです。完全に屈伏しなければならないのです。ここにおいて、サタンは後退するのです。それ故、サタンより神を愛するイエスを、サタンより以上愛するようになった時、サタンは手を付けることができないのです。それ故、ここからサタンは神の国、即ち天国と別れていくのです。

 このような事情があるために、今日キリスト教の信者達は怨讐を愛さなくては、神の国に帰って行くことはできません。それ故、怨讐を愛する心をもって戻って行かなければなりません。これをカイン・アベルの立場から見る時、アベルは誰を愛さなければなりませんか。カインを愛さなければなりませんか。カインを救ってあげなければなりません。カインが天使長の立場であるからです。天使長を解放せずしては帰って行くことができないために、統一教会の原理の中で、カイン・アベルの問題が登場したのです。

 心はアベル、体はカイン

 カイン・アベルは個人から分かれました。個人的なカイン・アベル、家庭的なカイン・アベル、氏族的なカイン・アベル、民族的なカイン・アベル、国家的なカイン・アベル、世界的なカイン・アベル、このように皆分かれてきたのです。

 では、個人においてカイン・アベルとは何でしょうか。心と体がカイン・アベルとなるのです。それで、心と体がお互いに闘うのです。体はカインの側であり、心はアベル側です。カインがアベルを打ったのと同じように、常に体が打ってきたのです。この闘いをはっきりと知らなければなりません。この体をアベルたる心の前に屈伏させ、心と体が一つにならずしては神の前に戻って行くことができません。体は僕であり、心は主人です。心と体は主従関係です。それ故に、心に引っ張られていく体にならなくては、神の御旨をなしていくことはできません。皆さん自体には、個人的なアベルがあり、家庭的アベルがあります。全てにアベルがあるのです。また、全てにカインもいます。復帰路程にいる皆さんは、これをはっきり知らなければなりません。

 では、皆さんはまず誰と闘わなければなりませんか。サタンが問題ではありません。皆さん自身と闘わなければなりません。何故ならば、皆さんの心の一線には神がおられ、皆さんの体にはサタンがいるのです。

 本来人間は愛で主管されるように造られています。愛の因縁さえ結べば、逆らうこともできず、主管されるようになっています。良い家系の娘であっても、下男と愛の関係を持てば、引っ張られて行きますか、引っ張られて行きませんか? (「引っ張られて行きます。」)良い家系も、どうすることもできません。愛の関係さえ結べば、どんな大きなことを言っても、その関係は断つことができません。そのようになっているのです。

 このように、愛の関係を結べば主管されるようになります。愛でもって一つになれば、別れることができません。愛で一つになっているものを分けることは無理であるために、愛の関係さえ結べば、上下を構わず関係を結ぶようになっているのです。アダム・エバにおいて、まず天使長とエバが愛の関係を結び、次にアダムとエバが愛の関係を結んだのです。愛の関係は、サタンが最初に持ちました。

 神を内的とすればサタンは外的です。従って、神は主体であり、サタンは対象です。主従関係です。人間を見る時、誰とまず愛の関係を結びましたか。外的なサタンと、まず関係を結びました。内的な神とは、愛の関係を結べませんでした。このように、人間は愛の怨讐となってサタンに引っ張られていく状況になったために、神は常に人間に対しサタンよりも先手を打つことができません。神は人に関わっていって、干渉することはできますが、引き連れて歩くことはできないのです。これが問題です。それ故、皆さんの心が強制的に体を引っ張って行こうとしても、引っ張って行くことができないのです。そのために六千年かかったというのです。

 皆さんは心と体が闘っています。ところが、この闘いの主導権を誰が握っているかと言えば、サタンが持っています。神は主導権を握っておりません。縦的に逆さになったのです。主従が転倒されたのです。主人格にはサタンがなり、僕格には神がなったのです。その僕を打ち切って、主人の位置に戻って来るまでは工作をすることができません。それで、六千年もかかったのです。

 ヤコブとエサウを中心とした血統復帰摂理

 神はこれを入れ替わらせる摂理をしてこられました。入れ替わろうとすれば、どこまで入れ替わらなければなりませんか。兄弟同士が成長した後に入れ替わったとするならば、それ以前が問題となります。四十歳で入れ替わったとすれば、四十歳以前までは入れ替わることができなかった結果となります。それで、四十歳以後の人は救援を受けるかもしれませんが、四十歳以前の人は救援できず、サタンが食い付いてくるのです。これは大変なことです。

 そのために、神は仕方なくまた摂理をされるのです。アベルが死んだ後、セツを立てて、セツ族を中心としてどこを訪ねて行くかといえば、女性の胎内を訪ねて行くのです。堕落は胎内から起きたためです。愛の種は胎内を通して生まれました。そのために胎内を訪ねて行って、入れ替わりをさせるのです。これは、どれほど大変なことでしょうか。おなかの中で入れ替わらなくては、生まれる命自体を神側に送ることができないというのです。それ故に、人を逆に入れ替わらせるためには仕方がなく父母の胎中にまで入って行って、分別する闘いをしなければならないのです。故に、キリスト教は神の御旨を代表した、歴史上になかった宗教であるということがいえます。これをカイン・アベル兄弟から入れ替わらせようとしましたが、そのようにできませんでした。それで、兄弟の間を狭めて行くのです。兄と弟が入れ替わることのできる交差点まで訪ねて行くのです。そのようにして、カイン・アベルの使命をセツが継ぎ、その御旨を受けてヤコブとエサウの時代が訪れるようになります。

 一段階近い立場に入ろうとすると、双子を立てて摂理せざるを得なかったのです。どれほど近くなりましたか。兄弟は兄弟ですが双子の兄弟です。ここでまた闘わなければならない故に、ヤコブとエサウが闘うようになったのです。イサクは誰を祝福しようとしましたか。兄エサウを祝福しようとしたでしょう? しかし、神はアブラハムの神、イサクの神と、このように受け継がれてくるのです。このエサウを祝福するようになれば、大変なことになります。それで母リベカが後押ししてヤコブを助けるようになったので、ここから、母子協助が出てくるのです。女性が先に堕落したために、神の息子・娘を解放するために、生まれてくる際にも、女性が協助をしなければなりません。そのようにして、女性がサタンに引っ張られないで、神の前に行くようになるのです。

 イサクは天使長の立場ですが、リベカは自分の夫であるイサクをだまして工作して、ヤコブが全ての祝福を受けるようになります。ところで、聖書を文字通りに見れば、兄をだました詐欺同然であるヤコブが、どうして神様の祝福を受けることができるかという疑問を持つようになります。それは、奪われて行った者を再び奪い返さなければならないために、そうしなければならなかったのです。天使長に奪われていった者を、再び取り戻すためです。

 イエス時代における天使長の実体はヨセフでした。ヨセフとマリアは怨讐の間です。エバはアダムに対し、「私は堕落したけれど、あなたが主体にならなければならないにもかかわらず、どうして私の話を聞いたのですか」と言うのです。またアダムはエバに、「あなたが私を堕落させたのだ」と言って恨むのです。そういう面から、ヨセフとマリアはお互い怨讐です。

 エサウとヤコブの路程において、母と息子が共同工作して誰をだましましたか。父親、イサクをだましました。この三人はアダム・エバ、天使長と同じような立場です。イサクは天使長と同じであり、息子ヤコブは誰と同じかと言えば、これから生まれてくるであろうアダムと同じです。従って、待ち望まれた息子として生まれることのできる立場です。そして母は誰と同じかと言えば、エバと同じです。堕落したエバは神の息子を身ごもることができなかった恨みがあるために、待ち望んだ息子を産むことが望みなのです。

 それで、母リベカは神側の息子であるヤコブと一つとなって、自分の夫であるイサクを天使長の立場に立てたのです。そのようにして、天使長の長男となるカイン格であるエサウが受けるべき祝福を奪って、神側に返したのです。その時、兄エサウはヤコブを殺そうとしました。故に、ヤコブはハランへ逃げて二十一年間過ごすようになりました。

 その後、ヤコブは兄エサウとよく交渉して、命を保つようになります。自分の僕達と共に、二十一年間かけて得た財物を兄に与えると、結局はエサウがヤコブを殺さず、迎え入れるようになったのです。エサウは、殺人を犯したカインと同じような立場にあったにもかかわらず、殺さない立場に立ったために、結局ヤコブはエサウを屈伏させたという条件を立てたことになりました。そのようにして初めてイスラエル、即ち勝利した民族圏を持つようになったのです。

 ヤコブはヤボク川で天使と相撲をして勝利しました。それは、アダムが霊的天使に引かれて失敗したことを蕩減し、切り返して、人が天使を屈伏させる条件を立てたことになります。それによって、天使長の実体と同じような立場にいるエサウがヤコブに屈伏することのできる内的基準をヤコブが既に作ったために、外的なエサウも屈伏する結果をもたらしたのです。聖書を見れば、全部否定することのできない事実です。これは、先生が作った話ではありません。

 今から数千年前にあったことです。聖書は約八五〇年の間、数多くの人々の手によって記録されたものですが、このようなことが、このような体系に基づいて記録されたということは、一つの思想をもった主人がいて、預言者を通して記録されたものでなければあり得ません。それ故に、「神はいない」という言葉は成り立たないのです。

 双子のエサウとヤコブが闘って誰が勝ちましたか。ヤコブが勝ちましたね。(「はい。」)それで入れ替わりましたか。入れ替わりませんでしたか? (「入れ替わりました。」)何歳頃に入れ替わりましたか。四十歳頃です。四十歳頃になって双子として生まれた兄弟が入れ替わることができましたが、生まれる以前、胎内においては未だ入れ替われなかったのです。それで、サタンがそれを食い付いて来たのです。

 タマルを通した胎内復帰摂理

 アブラハム、イサク、ヤコブ、三代目のヤコブに、ユダという息子がいるでしょう。ユダ支派を形成したユダはヤコブの四番目の息子です。四番目というのは東西南北、春夏秋冬というように、四方の基準が現れ、春の季節を迎えるようになるのです。それで、四番目の息子が祝福を受けるのです。

 そのため、ユダの支派を通してイエス様が誕生されたのです。イエス様の先祖の中でユダがどうなのか見てみましょう。ユダに嫁がいましたか。誰か知っていますか。タマルがユダの長男のところにお嫁に行きましたが、その長男に子供ができず死んでしまいました。

 昔のユダヤの国においては、祝福を受けた血統は絶えてはなりませんでした。それで、女性がその後孫を残さずに死ぬことは、女性としての道理ではありませんでした。そうなれば、祝福を喪失してしまう女性となるのです。それでユダ族の国においては、国の法には兄が子供を産むことができず死んだ場合、その兄嫁を引き受けるようになっていたというのです。それが悪ではないのです。祝福を受けた女性を捨ててはならないようになっていました。外に出してもいけないのでした。そのはずでしょう? サタン側に追い出すことはできないのです。

 それで、弟が兄嫁と共に暮らしていましたが、その弟も死にました。それ故に、タマルは自分の一代に祝福を受けた血統を繋ぐことのできないことに対して、命を失うよりも、もっと苦悩するようになりました。自分は死んだとしても、どういうことがあっても祝福を受けた血族を残さなければいけないという使命感、神の祝福を残すことのできるその道を追求する心がタマルは、誰よりも強かったのです。

 これを成就する道があるとすれば、体面などかまわず、生死もかまわず、命を懸けようとする立場でした。これはマリアと同じです。そのために、どのようにしたかと言えば、自分の舅を相手にする計画を立てました。それで、タマルは舅が畑の仕事から帰ってくる道を知って、遊女のように仮装し、道端で舅を誘惑したのです。それで、舅と一つになって子供を宿すようになりました。

 この世の中にそういうことがあり得ますか。これが聖書にある内容です。何故そうしたのでしょうか。そうしなければならなかったためです。堕落した結果がそのようなものであったために、そうしなければ天道が開かれなかったのです。

 タマルがそのような因縁を結んだとき、ユダは自分の印鑑を与えて別れました。舅ユダは道端でそういう関係を結びましたが、その相手がまさか自分の嫁であることは知りませんでした。そしてタマルに対して噂が広まりました。寡婦が子供をはらんだので、「殺せ」と言って騒ぎました。このようになれば、タマルは死ななければならない立場でした。その時、ユダは族長でした。其の噂はユダにまで届くようになりました。それでユダの命令に従って殺そうとすると、タマルは、「私は不法に行ったことではなく、この子供の主人はこのような人です」と事情を話しました。

 そのようにして、タマルは子供を産むようになりました。その子供は双子でした。

 エサウとヤコブが胎内で闘うので、リベカが神にお祈りをすると、神様が「二つの民があなたの胎内から別れるであろう。一つの民は他の民族よりも強くなり、兄は弟に仕えるであろう」(創二十五章二十三節)と答えられました。同じように、タマルの胎内で闘いが起こったのです。子供を産んだ以後には切り換えられないので、胎内で切り換えたのです。創世記三十八章にこのような内容があります。

 ユダの子供が産まれましたが、最初がペレヅであり、次がゼラです。彼等は生まれる時、兄が先に出るために手を出しました。それで、その手に赤い糸を結びました。これは終末期に共産党が出て来ることを予告したものです。主が来られる時には、神を否定する共産党が出て来るのです。ところが、弟ペレヅが兄を押しのけて、先に出て来たのです。これは胎内の闘いです。

 胎内で兄を押しのけ、弟のペレヅが兄として生まれることによって、兄と弟を切り換えようとする神の摂理が勝利の結果をもたらしたのです。これは即ち、人を逆に胎内に入れて、胎内で闘って兄弟で切り換えた結果をつくったのです。このような役事は聖書以外にはありません。そのために、これを神の摂理だと言わざるを得ないのです。

 胎内で勝ったために、この胎中を通して、勝利したその基盤を通して、節操を持って、命を捧げることを覚悟しながらその思想を受けて出てきた女性を通して、神の御旨を立てることができたのでした。そのような女性が身ごもれば、サタンは讒訴することができないのです。

 胎内復帰の基盤の上で、神の子として生まれたイエス

 マリアは、タマルと同じように非法な道を行きました。タマルが非法の道において勝利したことを継承するためには、同じ道を行って、自分の夫でない他の男性を通して身ごもらなければならなかったのです。マリアは、タマルと同じように自分の命を捧げることを覚悟していたのです。体面とか威信とか、生死は問題ではありませんでした。神の祝福を受け継ぐためには、自分は石打ちにされてもいいと思ったのです。死んだとしても、子供を生んだ後に死ねばいいという確信をもって立ったマリアの立場はタマルと同じでした。

 千九百年前に立てられたヤコブの家庭と、ユダの家庭で整えられた勝利の基盤が、歴史を経ながら継承されてきました。その上で、マリアを通して神様がご計画された息子を抱くのですが、その息子は双子ではなく、イエス一人だったのです。イエスは、勝利の胎中から生まれた息子であるために、サタンが「自分の息子である」と言って讒訴することができないのです。それで、イエスは初めて天上の御旨を立てることのできる神のひとり子として、地上に降臨するようになりました。イエス様はどのような教祖とも比較することのできない教祖であり、神の息子にならざるを得ません。聖書は、それほどまでに理論的にぴったり合っているのです。これは、文先生が作り出した話ではありません。そのようになっていますね。(「はい。」)

 イエスは神の息子です。サタンが血統的に人類に侵入できる基盤を固めてきたのですが、それを胎内において切り換える基盤を持ってマリアがイエスを胎内に宿した後からは、サタンは神に対して、胎内に自分の子供が入っているという条件を立てることができないようになったのです。胎内にいる子供は、主人たる神の最初の実として、神様が「私の息子である」と言って、堂々と権威を持って誕生させることのできる子供でした。そういうイエスが、僕の体を借りて生まれたのです。

 イエスはアダムの代わりですね。(「はい。」)アダムにかたどって創造したのがエバであるので、イエスにかたどったエバを創造しなければなりません。イエスが生まれたならば、エバも創造原理通りに復帰し、再創造しなければなりません。過ちを正して、本来の姿につくらなければなりません。

 イエス様に残されたこと

 先生が江原道に来て、このように詳細に話をしてあげると、気分が悪いですね。止めましょうか。(「いいえ。」)こうした全てを知れば、原理講義をしながら誰から聞かれても答えることができるのです。そうすることによって、既成教会の牧師達が両手を挙げるようになるでしょう。

 今、このような秘密はどこに行っても、億千万金に替えても学ぶことのできないものです。先生がいるからこういうことを皆学ぶことができるのです。では、継続しましょうか、止めましょうか。(「継続してください。」)こういう話に関心のない人には話したくありません。関心がある人にも話そうとしないのに、関心がない江陵の者達に何の話をしますか。止めましょうか、継続しましょうか。(「継続してください。」)

 朝から話したので今は喉がかれました。きょうは仁川に行くように一昨日約束をしましたが、聖日ですからそのまま通り過ぎるのが惜しくて、きょう皆さんの前に立ったのです。朝、御言を語っているにもかかわらず、眠っている者達がいますね。止めてしまいましょうか。(「続けてください。」)では、よく聞いていなさい。

 投資をする人達が財産を皆捧げるように、先生もこのような内容を捜すために、生命を懸けて闘争しました。皆さんは座って聞いているだけですが、それほど簡単に捜せるものだと思いますか。考えてみなさい。そのように座って、簡単に神が教えてくださって知ることのできる内容であるなら、何千年も前に皆教えてくださったことでしょう。このような内容を探し求めるためには、生命を懸けなければなりませんでした。

 それ故に、統一教会の原理は、先生の命が復活して連続することと同じです。先生が生命を懸けて闘って探し求めたものなのです。そのような問題の一つ一つが解決される度ごとに、先生の生命が復活してできた、生きた歴史なのです。それ故、皆さんが原理に接する時は、眠ってはならないのです。皆さんは原理を生命よりも重要視し、侍っていかなければなりません。

 イエスが誕生する時までサタンは人々に、「あなたの体には私の血統が入っている」と言いながら讒訴しました。立派な人であっても、愚かな人であっても、皆そのような讒訴を受けたのです。釈迦や孔子を信ずる人々にはすみませんが、釈迦や孔子もそうでした。堕落した後孫であるために、神の立場から見るときはそうだと言うのです。しかし、イエスはどうでしょうか。イエスはそうではありませんでした。

 イエスは先程言ったような過程を経て生まれてきたのです。では、そのように生まれた女性がいましたか、いませんでしたか? (「いませんでした。」)それで、そのように生まれた男性であるイエスは、昔エデンの園において失われたエバを再創造しなければならなかったのです。

 エバはアダムをかたどって創造したのです。人々は、エバはアダムのあばら骨を取り出して作られたために、男性にはあばら骨が一つないと言っています。しかし、あばら骨を取り出したのではありません。この言葉は、「かたどって作った」という意味なのです。皆さんは、本の要点を整理することを、「骨組みを取り出す」、「骨子を取り出す」というように言います。それと同じです。あばら骨を取り出して作ったということは即ち、それを見習って作ったということです。

 エバは誰によって作られたのでしょうか。誰をかたどったのでしょうか。(「アダムです。」)それで、女性は男性よりも小さいのです。男性よりも大きい女性を見ましたか。女性が大きければそれは手本を誤ったのです。それでは、手本がいいでしょうか、副本がいいでしょうか? (「手本がいいです。」)女性は副本です。それ故に、完全という面からみると少し劣った点があるというのです。女性は男性のように髭がありません。はやそうとしてもはやすことができないでしょう? そのような差があるのです。イエスに残されたことはエバを捜すことでした。

 聖婚できなかったイエス様

 では、マリアはどのようにしなければなりませんでしたか。端女たるマリアは堕落したエバの立場で、自分の継代(けいたい・跡継ぎ、あととりのこと)を通して堕落しないエバをつくるために、あらゆる精誠を込めなければなりませんでした。イエスの結婚に関心を持たなければならなかったのです。ところが、マリアはガリラヤのカナの宴会の席に参席し、そこに来たイエスに「ぶどう酒がなくなりました」という話をしました。すると、イエスは、「婦人よ、あなたは、私と何の関係がありますか」と言いました。「あなたと私は何の関係があるのか」と言うのです。他人の家の宴会が何の関係があるか、私の宴会はどのようになっているかというのです。

 先生がこのような族譜(ぞくふ・イエスの系譜を示す。)を掘りお起こして、悪口を言う必要はありません。しかし歴史を正し、伝統を正さなければならないため、不可避なのです。そうではないでしょうか。イエスが死ぬようになったのは、結婚することができなかったためです。結婚していたならば、どうして死ぬことがあったでしょうか。

 マリアは全身全霊を込めて女性を再創造しなければなりませんでした。マリアは女性です。マリアは僕としての女性の中で代表的立場であるために、僕圏内にいる女性を全部動員しなければなりませんでした。三人以上動員しなければなりませんでした。三位基台を立てなければなりません。そのように動員して、お互いが協助しなければなりません。

 イエスの親戚の中で娘がいるか捜してみて、娘がいれば彼女達を集めて基台を作らなければならなかったのに、それができなかったのです。イエスの親戚の中で誰がいましたか。洗礼ヨハネの妹がいたならば、どれ程良かったでしょうか。洗礼ヨハネの母は、マリアがイエスを宿した後、世話をしてくれました。イエスが胎内にいる時から歓迎しました。それ故、洗礼ヨハネの妹や親戚関係の八親等内に娘がいたならば、洗礼ヨハネの母とマリア、そして姉がいたならば、その姉と三人が一つとなって、イエスより年が若いその親戚の娘と因縁を結ばなければなりませんでした。イエスと共に一人の女性を再創造しなければならなかったのです。

 もし洗礼ヨハネの妹がいたならば、幼い時から、イエスが東に行けば東に付いて行きたいし、西に行けば西に付いて行きたい。付いて行けなければ、「私は死ぬ」と言う程にイエスを思うようにしておかなければなりませんでした。イエスが結婚する前に、そのようにしておかなければなりませんでした。そうであれば、誰が来てもどうにもならないのです。そのような女性は、今まで信じることのできないような、歴史的な全ての内容を話すことのできる特別な氏族の中から出て来なければなりませんでした。それは、どのような氏族でしょうか。洗礼ヨハネの家庭とヨセフの家庭です。ヨセフの家庭には、ヨセフの従姉妹(いとこ)もいたでしょう。

 神は、イスラエルの国ではユダヤ教が中心であり、ユダヤ教の中でもヨセフの家庭(氏族)が中心であり、ヨセフの家庭(氏族)の中でも、洗礼ヨハネの家庭が中心であることを知っておられました。それ故に、その家庭は最も重要な血族でした。祖先の中の種がいいというのです。神は、イエスを見込みのある家門から見ても、名門である家門を通して生まれるようにされました。また、洗礼ヨハネの家庭を見ても、洗礼ヨハネをエリサベツが身ごもった時、祭司長をしているザカリヤが唖になったのをみると、族譜、即ち家門がいい家だということが分かります。それ故に、それ程良い従姉妹圏内からイエスの相対者を得たならば、神は嫌がったでしょうか、喜ばれたでしょうか?

 イエスの相対は他のところから取ることができません。自分の直系の従兄弟の妹、従兄弟の姉妹からしかありません。血統が異なっていてはいけないのです。このように従姉妹を通して事が良く運んでいたならば、どのようになっていたでしょうか。イエスに惚れて、「イエスでなければ自決したい。イエス以外の人の嫁には行きません」と言う、そのような妹がいたならば、どのようになっていたでしょうか。イエスが死ぬ時に「私も共に死のう」と言って付いて来る女性がいたならば、どのようになったでしょうか。そういうことを考えてみたことがありますか。

 ペテロ、ヤコブ、ヨハネのような主弟子も皆逃げてしまったのですが、一方的に慕う一人の女性が出て、「彼が死ぬのならば、私も共に死にたい」と言う妹がいたならば、どのようになっていたでしょうか。そうであったならば、イエスは昇天することもなかったのです。イエスが昇天しなかったならば、キリスト教徒は虐殺されなかったのです。そういう事実を見ると、非常に重大なのです。

 この地上に神の王者が来られたのに、男性達は天使長の立場であるために逃げたのですが、彼の相対者として残るべきエバの群れ、夫が行くべき道を貞操を持って守ることのできる一人の女性、片思いでもすることのできるそのような女性がいたならば、どのようになったでしょうか。皆さんはこれを考えてみましたか。

 イエスは死んだとしても、神の前に栄光を返すことができました。また、死の場においても、「あなたはこの地上で愛することのできる一人の人を捜したのではないでしょうか。私に味方し、私を愛して死んでいった、か弱い女性をかわいそうに思ってください」と言って、恵みを乞うこともできるのです。万民を代表して恵みを施してあげることもできるのです。

 イエスは死の道、黄泉の道においても寂しくなかったのです。地獄に行ったとしてもペアで行ったでしょうし、楽園に行ったとしてもペアで行ったでしょう。だから寂しかったでしょうか、寂しくなかったでしょうか? そのようになっていたならば、聖霊は何のために送りますか。聖霊を送る必要がありません。そのように成すことがてきない運命であったので、聖霊を送ったのです。父の神であるイエスは天に行ってしまい、母の神である聖霊は地上に降りて来ました。離別が始まったのです。そのような女性がいたならば、昇天は必要なかったのです。地は子女を直接保護するために、そのように死ぬことはないというのです。

 責任を果たし得なかったマリアと親戚

 このような恨みが積もっているのです。もっと詳細に話をしてあげたいのですが、時間がありません。「原理」にはそういう内容がないですね。「原理」はイエス様まで説明しているために、イエス以後、先生に関することを皆さんは知りません。それ故に、皆さんはこれから本当の勉強が残っているのです。まだ私が教えてあげていないのです。試験を受けて落ちる人は落ちてしまい、本当に残るべき人達が残るようになれば、私が神の国へ連れて行くことのできる家庭をつくっておいて、教えてあげるのです。そのような家庭をつくるためにも今、このような苦労をさせているのです。女性を皆押し出して苦労させ、今は男性達も息子達までも苦労させようとしています。

 貴く受けることができるようになって、初めて貴いことを与えます。そうでしょう? それで、女性達に家庭を捨てて開拓の道を行くようにしたのです。ここに同参しない人は、これからどのように悲惨になるかを見てみなさい。そこにおいては、先生と何ら関係がありません。そういう法を皆さんは知りませんか。どのような法を取ろうとするのか知らないでしょう。それについて少し話をしてみましょうか。

 話す事がたくさんあるので、一週間かかっても皆話しきれません。しかし、今これぐらい話せば、皆さんは間違いないということを知るようになったでしょう。これが本当の覗き眼鏡の中の世界であり、本当にややこしい事実であるというのです。これ位知れば生命を懸けるに値するでしょう。イエスもこれぐらい分かって生命を懸けたのですが、皆さんはイエスよりももっとたくさん知っているのではないでしょうか。イエスとかマリアはこのような内容を知りませんでした。髪をボサボサした独身者となって、ただ神が教えてくれればうなずき、「しなさい」と言われた通りにしかなさなかったので、そのような準備は一つもなしませんでした。

 もし知っていたならば、親戚の妹に接近し、御旨を教えてあげたのではなかったでしょうか。事実、当時の事情で、イエス自身がそうすることのできる立場でもなかったのです。腹違いの息子として生まれたという噂の故に、そうすることのできない立場でした。それを、母であるマリアと洗礼ヨハネの母、そしてその姉かあるいは従姉妹等の、三人の女性がしなければならなかったのです。そのように、三人の女性が一つになっていたならば、間違いなく成すことができたのに、これができませんでした。

 皆さんの中においても、いつ御旨が成されるであろうかと思う人がいるかも知れません。神の特権的恵沢、天地が引っ繰り返るほどの恵みが訪ねて来ても、皆さんはそれを知っていますか、知りませんか。「受けなさい」と言っても、目をパチパチしていますね。歴史はそのように成されていくのです。

 イエスがかわいそうですか、かわいそうではないですか? (「かわいそうです。」)このように、イエスを結婚させられなかった女性達になってしまったので、滅びるようになりました。イエスが結婚できなかったので、父と母に侍ることができず、親戚をつくることができず、教会を持つことができず、国を成すことができなかったのです。

 エバ復帰路程

 統一教会の女性達が何故三年路程を歩まなければならないか、その理由が分かりますか。六〇年代は、女性を個人的に送りました。そのために、先生は三年間の開拓において、女性達を先頭に立てました。そうだったでしょう? その三年が過ぎれば男性が多くなると言いましたが、そのようになりましたか、ならなかったですか? この頃は男性が多いでしょう?

 女性が神の息子を追い出しました。個人的に追い出し、家庭的に追い出し、民族的に追い出しました。そうでしょう? 女性が一つになっていたならば、状況はそのようにならなかったのです。宗教は女性のものです。女性が一つの群れとなって、イエスを救わなければなりません。イエスを殺そうと反対する群れの三倍の女性達が集まって、「私を殺せ」と言って騒いだならば、イエスを殺したでしょうか。殺すことができませんでした。それは大変なことなのです。

 それで、個人的女性の蕩減時代が来たので、今家庭的女性の蕩減時代へと上がって行くのです。このような蕩減時代がなければならないでしょうか、なくてもいいでしょうか。個人的アベルの蕩減がなければならないし、家庭的アベルの蕩減がなければなりません。蕩減をしなくては、上がっていくことができません。それで、各段階ごとに、このような蕩減があります。女性が個人的に蕩減したならば、一段階上がって行かなければならないでしょう。一段階上がって行くのに、そのまま上がって行くことができますか。そのままでは絶対に上がって行くことはできません。蕩減をしなければ上がって行けません。

 それ故に先生も苦労するのです。もしキリスト教が先生に侍っていたならば、キリスト教は二千年間、個人と家庭を蕩減してきたために、一度に全てが解決されるのです。しかし、キリスト教が反対したために、再蕩減の路程が残されたのです。それで先生は北韓の共産世界、怨讐世界の果てに行ったのです。そこで南韓を捜し、取り戻し、奪い返してきたのです。奪い返してくる時には、打たれたとしても取り戻さなければ足を付けるところがないのです。このようにして個人、家庭、氏族まで上がって来ました。たくさん上がってきたでしょう? そのたびごとに迫害を受け、追われながら来たのです。

 先生は個人の復帰路程を経て、六〇年代から聖婚式を中心として家庭復帰の土台をつくってきました。イエスが家庭、即ちエバを育てなければならないのと同じように、先生もお母様を育てなければなりません。先生が何故若いお母様を選んだか分かりますか。先生が育てなければならなかったためです。二十代を越えればお母様になれないのです。アダム・エバが十代圏において、即ちエバが十六歳頃に堕落したために、何も知らない十代圏にいる女性を選んで、天の法度を教えて、誰も知らないうちに育てなければならなかったのです。何も分からない十代から、夫が行く道の前に、絶対的に命を捧げて従順であることを誓い、天を通して公約を立ててこそ、母親の立場に上がって行くのです。皆知っていてはならないのです。何も知らない状態から上がって行かなければなりません。

 お母様は何を分かっていたでしょうか。先生の年が四十代で、十八歳になった婦人を迎えたのでどれほど大変だったでしょうか。ご飯を食べることと、神しか分からないお母様でした。しかし、そのお母様とその背後に神の摂理の御旨があったために、何も知らないお母様を連れて来て育てたのです。その期間が第一次七年路程の期間でした。

 神は女性を六日目に造られました。七日の期間を越えなければならなかったのですが、そのような安息の期間を越えることができませんでした。そのために、男性としての先生は勝利の基盤を整えましたが、女性としてのお母様はまだ勝利の基盤をつくり得ませんでした。それで、女性としての勝利の基盤を越えるようにし、家庭の基盤をつくるその期間が第一次七年路程なのです。

 それ故に、お母様は泣きながらでも従順でなければなりませんでした。泣いたとしても、タマルのような心情、マリアと同じような心情を持たなければなりません。自分の一身は滅びたとしてもかまわない、肥料になろうという考えをもって、国の為に、世界の為に、御旨の為に、祝福を受けた血族を残すために、どんな冒険でも成しうるという決意をする立場に立たずしては、「お母様」の名を備えることはできないのです。先生がその教育をしてきたのが第一次七年路程でした。
 そして第二次七年路程は何かと言えば、女性として行く道をつくる期間です。祝福を受けた男性達は何かと言えば、全部が天使長型なのです。お母様が第一次として行かれたので、祝福を受けた女性達は二次として行かなければなりません。即ち、二次七年路程は子女の立場にいる家庭が位置を立てる期間なのです。

 その後に、三次からはどのような期間に該当しますか。その時は、祝福を受けた皆さんの子女達が十四、十五、十六歳を越えるようになります。そうでしょう? 第三林七年路程さえ越えるようになれば、祝福を受けた人達の中で、アダム・エバが堕落して行った、その時の年齢を越える子供達が現れるようになります。それ故に、その時から統一教会が世界的に伸びていくようになります。原理的に見るとき、そのようになっているでしょうか、なっていないでしょうか? (「なっています。」)遠くありません。七年だけ過ぎてみなさいと言うのです。

 今は女性が責任を果たす時

 「一次七年路程に参加した人は恵みがある」と言ったでしょう? それで今回七七七双を祝福した際、一次七年路程に参加した人は一人も残さず、全部無条件に祝福してあげたのです。殆どがそこに入ったでしょう。それで、一次七年路程に参加した人は恵みを受けると言ったのです。

 このように詳細に教えてあげれば限りがありません。詳細に教えてあげれば誰でも入ることができるでしょうか、できないでしょうか。ご飯をつくってあげればそれでいいのであって、食べさせてまであげなければならないでしょうか。食べることは自分達がしなければなりません。

 今は家庭的に女性がカイン圏に勝つ時です。女性一人、即ちエバが堕落することによって、どのようになったかといえば神を追放しました。その次には、真の父母を追放したでしょう? その次には、真の夫婦、真の子女を追放したでしょう? どれほど多くを追放したか見てみなさい。女性がどれほど罪深いか見てみなさい。その後には、真の人、真の家庭はもちろん、真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界、天国、霊界までも皆追放しました。何段階ですか。十二段階でしょうか。これらを皆追放しました。

 女性にはこのように罪が多いのです。女性が歴史において誉められるようになっていますか。死ぬほど苦労をするようになっていますか。女性として生まれたのは、罪が多いからです。これを埋め合わせなければならないのです。それ故に、今まで女性達は数多くの男性から蹂躙されてきました。

 男性は天使長です。何故そのように蹂躙しましたか。自分の妻ではないためです。天使長に妻がありましたか。それ故に、女性は自分の妻ではないのです。本当に大変な話ですよ。自分の妻でない女性は怨讐の妻です。それだからかわいいのでしょうか、憎たらしいのでしょうか。憎いために、共に生活しながら足でけったり騒ぐのです。今までそういうことをしてきたのです。ですから、どれほどかわいそうなことでしょうか。それ故に、女性達は本然の夫、即ち新郎となる師を捜し求めてきたのです。そこから、本来の夫を迎えるようになるのです。

 それで統一教会においては、一度結婚をすれば永遠を懸けて行くのです。先生が来たために、このようなことが始まるのです。それ故に、男性は、今までサタンの前で軽蔑され、苦労してきた自分の妻を、初めて捜し出して、男性として愛してあげて誇らなければなりません。

 男性は考えてみなさい。女性を憎むことができないのです。「引き裂かれ、言うことのできないほどの苦労をし、怨讐に捕まって死ぬところまで行って喘いでいたのは、私がいなかったためである。しかし、今私と会ったので、過去の全てのとがを忘れ、本来の夫として愛してあげなければならない」と言わなければなりません。そのようにする責任が統一教会の男性達にはあります。そのような考えをもって妻を愛さなければなりません。分かりましたか。女性がかわいそうでしょう?

 これから皆さんの妻は母の代身です。歴史的な女性です。また姉の代身であり、妹の代身です。それ故、総合的な愛の心情をもって、女性に接してあげなければなりません。妻が母の代身であり、私が父の代身の立場で、それ以上愛する心を持たなければならないし、その次には、妻を愛する夫の心をもって愛してあげなければなりません。このように三つの愛を中心として妻に接しなければなりません。このように三位基台を束ねて妻を中心とすれば、四位基台になるでしょう? このような四位基台が、一人の女性を代表として、心情を超越した立場で束ねてこそ、初めて善なる父母の因縁が出発するのです。

 男性達、そうですか? 裏心を持った男性達は雷に遭います。霊界に行けば引っ掛かってしまいます。

 この三千里半島の上に生きる女性達は、民族と国の運命を懸けて、蕩減の祭物路程を行かなければならない時が来ます。分かりましたか。サタン世界に軍隊を作ったことは誰の過ちのためでしょうか。女性が誤ったためです。それ故に、韓国にいる女性が挙国的に団結し、サタン世界の男性の軍隊を全部掃討しなければなりません。そうしなくては、韓国の解放は訪れません。それは大変な話です。北韓で女性が強力な正規軍の訓練を受けているという話を聞く時、胸がつまる思いがします。

 何をしようとしてサタン世界の彼等が、そのようにしたのでしょうか。それは大韓民国が誤り、既成教会が誤ったために、このような形になったのです。しかし、今や我々の行く道は公式的に出てきているのです。

 その道を行こうとすれば、家庭の主婦の皆さんがこれから民族の新しい基準を立てなければなりません。それには統一思想をもって征服しなければなりません。女性の軍とならなければなりません。今までは男性達だけが出征しましたか、女性が出征しましたか。女性は国を滅ぼし、世界を滅ぼしましたが、いつ女性が国の解放のために出征したというのですか。男性はサタン世界において解放軍でありましたが、女性が国を捜すための先頭に立ったことはありませんでした。

 ところが、今日先生のおかげで女性が国を取り戻す騎手となる特権的恵沢を受けることができました。このことを有り難く思わなければなりません。こうすることのできる時は一時しかありません。この時期が過ぎれば、そうすることができない時が来ます。だから、皆さんはここに出て来て良かったですか、悪かったですか? 他の考えはするな、と言うのです。

 女性解放運動の伝統を立てるべき女性達

 今、皆さんは、女性が失敗したことを蕩減した女性として、挙国的、民族的女性解放の伝統をつくらなければなりません。個人伝統をつくることができますか、できませんか。家庭を中心として民族が形成されたために、家庭の伝統を立てなければなりません。では、誰が家庭の伝統と家庭主婦の伝統を立てますか。統一教会においては、神の前に祝福を受けた家庭が先頭に立たなければなりません。祝福家庭がこれから、新しい国の国民の伝統を立てなければならないために、やむを得ず祝福家庭の皆さんを一斉に追い出さざるを得ないのです。これが神様の事情です。

 それ故に、皆さんはあらゆる精誠を込めなければなりません。夜ならば、夜を徹しながら聖地で、この民族のために涙を流す祈祷をしなければなりません。自分の子供に会いたくなれば、任地の村を訪ねて行って、会いたい心から出てくる涙を禁じ、「三千万民族を私の子供の代わりに愛し、私の夫の代わりに愛することができるようにしてください」と、神に祈祷しながら伝道しなければなりません、そのような思想を残さなければなりません。これが新しい国、家庭において、主婦達の伝統となるのです。

 皆さんがそうすることによって、夫達の行く道を教育するのです。分かりましたか? エバは男性に対する教育を誤ったために、滅びるようになったのです。エバは、愛の道理と愛の因縁を中心とした生活舞台をサタンに売ってしまったのです。今日、皆さんは男性が行くべき正義の道理を立てなければなりません。女性が立てなければなりません。その次に、子女を教育することにおいて、正義の教育資料を女性が作らなければなりません。そのために男性は子供を抱き、子守歌を歌うことができなければなりません。「子供よ、子供よ、あなたの母は世界の中で最も立派なお母さんである。天国の天女よりも立派である。わが国の大統領夫人よりも、アメリカの大統領夫人よりも、英国の女王よりも、もっと神様が愛する立派な王妃である」と言いながら讃美しなければなりません。そして、「そういう母に侍り、そのような母を迎えることが父の願いです。あなた達も、そういうお母さんを見ることを願うでしょう」と言いながら教育しなければなりません。

 「あなたの母は、国の為に、天と地の為に祭物となった立場で苦労しています。お父さんも、そのお母さんの為にこうして朝に夕に祈祷しているので、あなた達はお母さんを懐かしく思わなければなりません」と言って、涙しながら指導しなければなりません。天下に二人といない貴い母親であると教育しなければならないのです。ここにおいて、初めて正しい教育が成されるのです。正しい夫も、ここから出て来るのです。

 それ故に、地域長達や地区長達は、自分の地区に来ているお婆さん達によく食べさせなかったり、飢えるようなことになったら大変なことです。そのお婆さん達によく接してあげてこそ、自分の妻が恵みを受けることができます。

 皆さん、愛の関係、即ち夫婦の関係を悲劇的な立場において結ぶことによって、全てのものが皆別れてしまったのでしょう。それで神が皆追い出したのでしょう? それを、いつ再び皆集めるのでしょうか。誰が集めなければなりませんか。男性が出て来て集めますか。天の道理に従って、法的な立場から、夫婦の因縁をつくる道を行くことによって、これを一気に捜してくることができるのです。

 我々は同じ姓を持った天国の民

 今、皆さんは神の御旨の中に集まって、神の仕事をしているのです。神の御旨に従って、か弱い女性が一線に立って闘う立場にいるのに、神が知らない顔をされるでしょうか。神が追い出したが故に、神が再び訪ねて来られるのです。どれ程の感謝でしょうか。それだから収拾されるのです。では、真の父母は一線に追い出したので、訪ねていらっしゃるのでしょうか、来ないでしょうか。先生がそうしたので、先生も同じです。それで、先生が皆さんを訪ねて来たのです。

 その後には、皆さんの夫が、皆さんのいる所に心を置くでしょうか、置かないでしょうか? 心を置きます。その後には皆さんの子女が置くでしょうか、置かないでしょうか。心を置きます。そして皆さんの氏族はどうでしょうか。我々統一教会の信者達、全教会員は同じ氏族です。その氏族の心も、皆さんに向かって行くというのです。

 皆さんの姓は何ですか。何家ですか。我々は統一家です。これからは、私が氏族を選出して、一つの家と、氏族をつくれば、一つの後孫となるのです。今は金某とか言うようにまだらで色々です。今はまだ入籍をしていないのです。

 アメリカや日本においては、女性が結婚すれば男性の名字に従います。僕は名前もないのです。そのために、女性は新郎として来る主様の名字に従って行くのです。夫達は僕の立場であるために名前がないので、仕方なく妻の名前に従わなければなりません。そのようにして名字が一つになるのです。

 日帝時代、サタンはまず創氏改名する運動をして、我が民族を教育しました。ですから、今名字を変えることが、それ程難しいでしょうか。日帝時代にも変わったのです。私は名字を変えるために来た人です。族譜(家系図)を掘り起こそうとして来た人です。気持ちが悪いですか、いいですか? (「いいです。」)僕の家系図を皆掘り起こして、王宮の王女王子の家系に入籍させようとするのに、嫌がる人がいますか。嫌だったら止めなさい。そういう人は滅びなければなりません。それ故に、喜ばざるを得ないのです。

 その後には氏族が訪ねて来るようになり、民族が訪ねて来るのです。皆さんを撃つ大韓民国の民族は悪口を言いますが、心の中では頭を下げるでしょう。「私の妻より、私の嫁より、私の娘より、誰よりも優れています」と言うでしょう。韓国一の妻・娘、自分の妻・娘よりも優れているというのです。このように民族が関心を持つのです。そのようになれば、大韓民国が関心を持たざるを得ません。今は持たないとしても、未来には関心を持つようになります。

 その後には世界が関心を持つようになり、霊界が関心を持つようになります。また被造万物が関心を持つようになり、天使世界が関心を持つようになります。誤った夫婦の因縁によって掘り起こされた全部を、正しい夫婦の因縁で越えて行かなければなりません。それで、今度の期間に、このような事が起こるのです。それ故に、第二次七年路程が最も重要なのです。

<(2)に続く>




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

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