間男の諸相と実例
巻頭掲載特筆事項(怒らば詫びん)きのうの私のスケベ日記への何者かのコメントコメントのしようがアリマセンね私の書き込みへのレスがこれ。フリーページの画像は見てません。ちょっと勇気がありません(^^;)生娘・小娘でもあるまいに、上二つながら、「ぶりっこ」である。ここで山本夏彦コラムを参考に、書く。昔話の話だ。由来、母親は残忍、酷薄、復讐、吝嗇(りんしょく。ケチの意)などのお話がきらいである。民主主義と平和が好きだから、「カチカチ山」でウサギと狸が仲よしになっても、あっけにとられない。アリがキリギリスを拒絶しなくても驚かない。むしろ喜ぶ。婦人は婦人の内心に、吝嗇、冷酷、好色などがあることはご承知のはずである。他人にあれば、自分にもあるにきまっている。テレビの拳闘や好色ドラマの視聴者は婦人に多いと聞く。自分のことは棚にあげ、子供にだけ、おちょぼ口して、きれいごとのお話をしたがるのはどういう料簡だろう。いま六十歳の婦人で、孫に巧みに昔話をしてやれるものは稀である。まして三十歳の母親は、活字を棒読みするくらいがせきの山である。むろん、それには血がかよっていない。抑揚も頓挫もない。だから、私は主張しない。けれども、五十年もたってみてごらん。いきりたって言わなくても、現在流布している本たちは、一冊も、どこにも、なくなっているだろう。以上引用。山本夏彦氏著「茶の間の正義」、昭和42年、文藝春秋刊、「昔話や童話を改竄するな」より。間男という言葉がある。読みは「まおとこ」だ。これは死語なのかも知れぬが、時代小説には出てくるはずだ。時代小説で「市之進は遂にお夕と間男した・・」ならわかるが、「市之進は遂にお夕と不倫した」では時代劇にはならぬ。故・笹沢左保(漢字失念)は、ヒット作「木枯らし紋次郎」であえて現代の時刻時間を使ったが、これはハッキリ言って興ざめだ。我々は尺貫法を知らぬが、津本陽(つもと・よう)氏の「拳豪伝」を読むうち、「物外(もつがい)はそこから十町もはなれた済法寺まで鐘をかついで行こうとしている(本文創作)」などと書かれると、距離がわからないが、それでいい。興味があれば国語辞書で「町(ちょう)」を引けば済むことだ。一町は六十間(けん)とあるが、まさか主婦で間(けん)を知らぬ者はないと思いたいが、最近のハウスメーカーの話を知らぬから、現代の3,40代の主婦いかなりやと疑問だ。ローン計画無事成って、新築の各部屋間取りを考えんと臨むとき、メートル法で片付けるのだろうか ? 我が家新築には、母が活躍してくれたから、おかげで無知な私は昔の単位に慣れたが、時々の検討の時、ハウスメーカーの人たちも、新旧双方の単位に精通して話が通じたから、実は我が国では未だに旧単位を使っているのではないか。ついでに一間(いっけん)は畳一枚の縦の長さで、およそ180cm。これを尺という別の単位で言うと、一間は六尺となる。一尺はおよそ30cm。だから身長180cmの大男を昔は六尺豊かな偉丈夫などと言った。だが先年、テレビの街頭インタビューで、一尺がどれくらいかを道行く人々に尋ねたのを見ていたら、両手をいっぱいに広げて、一メートルくらいをさす女あり、中年の男ありで、もはや、尺貫法は滅びたかと寂しい思いだった。さて、間男という言葉を私は小学高学年のとき、亡き祖母から教わった。と言って祖母は明治30年生まれの気丈、きっぷの良い女で、良からぬことを教えたのではない。私が間男なる言葉を知ったのは、実に珠玉の怪談「四谷怪談」である。伊藤家に婿入りせんとする民谷伊右衛門は、あんまの宅悦(たくえつ)に奸計(かんけい)持ちかけて、「岩と間男せよ」と誘う場面だ。古い言葉は使わぬと滅びる。たとえば時代劇で情夫・情婦を「イロ」と読ませないと、この言葉は滅びる。活字が苦手なら、高橋英樹、里見浩太朗のカツラだけ時代劇でなく、TVドラマ「鬼平犯科帳」を見れば時々出てくるが、時代劇を小説・ドラマ共に見ない日本人が増えたし、テレビ自身がきちっとしたセリフを使わない。役者も侍言葉の下手な者が無理に演ずるから、これは「カツラだけ乗せ現代劇」である。NHKの大河ドラマ「新選組」はまあまあの視聴率らしいが、あれはスマップとかいうメンバーの一人が主役だからではないかと怪しむ。時にわきを固める俳優たちがしっかり演技してるのに、この男がへたな近藤勇をやるから劇はかなり壊れていると見るが、私はこれを試しに少し見たきり見ていないから、わからぬけれども、作家などの批評は冷たいはずだ。だいいち、この男、ぶおとこだと思うが、なぜか女共に人気があるから、ホルモンとはどこに働くかが未だにわからぬ。私にとっての近藤勇のイメージはたとえば三船敏郎氏だ。いかにも強そうだ。無論、名優だから風格もある。黒澤明が見込んだ俳優だから当たり前と言っても良かろう。なお、私がフリーページにそのサインを常設している小野寺昭氏は現代劇のイメージが強いが、彼ぐらいの世代の俳優は、時代劇のセリフ回しも板についている。近年の代表作はNHKの「御宿かわせみ」だろうか。偉そうな口をきいておくが、このタイトルをたとえば「ごしゅくかわせみ」なぞとしか読まぬ者が多いのではないか。ファンならば知っている。「おやどかわせみ」と読んだら、まるで「すずめのおやど」だ。「♪すずめ、すずめ、お宿はどこだ、チュンチュンチュン、チュンチュンチュン、こちらでござる・・・」。こんなおおらかな歌も知らぬ者が増えたのではないかと思うと、つくづく「祖国とは日本語だ」と言ったコラムニスト、山本夏彦氏を思い出す。軌道修正する。よーそろー。私にはこの間男体験がある。ひい、ふう、・・三つある。タイトルに偉そうに書いたが、私が経験したのは二種類。これまた道にはずれたことをしでかしておいて、言えた義理ではないが、既に不義を働いたから書くと、とりあえず幸福な家庭の主婦はターゲットにしない。というより、まず無理だ。「亭主が浮気病で、淋しい主婦」・「亭主が海外赴任で淋しい主婦」。これが私の間男のターゲットだが、すぐに取りかかるほど下心はないし、出来るわけもない。これを役得と呼べるかどうかわからないが、いずれも家庭教師が原因で行動に走った。既に学生時代のことはずっと以前の日記に書いたから、ここでは地元へ帰って来てからのことを書く。この話、長くためらっていたが、相当な脚色で書くことにした。さて、そろそろ現代の言葉も使う。不倫・浮気は最後は必ずバレる、疑われるというのが私の結論だ。実際、亭主に怪しい電話を聞かれ、おどされたことがあった。海外から帰ってなお、不倫を続けていたところを、電話のモニターで聞かれたのが失敗の元となった。ややこしい話をしなければならないが、家庭教師は、地元のかつての大手塾に登録し、初め昭和53年秋から翌年にかけてわずか一件、その後数年のうちに、徐々に増えて昭和55,6年ごろ月収十万になった時は母と共に感激した。なお、この稼業には頭打ちがあり、最高月収は開塾の三年前、昭和59年ごろがピークで、件数17件、月収わずか35万だった。このまま昭和61年塾開業まで続いた。その昭和60年ごろ、以前書いた日記の通り、一人の女高生にあっというまにフラれたあと、バイクが縁で知り合った娘との仲がこじれ、要するに淋しくなっていた。家庭教師は大手塾の斡旋が主だが、中に口コミがあった。これは塾によるピンはねがないから、私もお客もその中間の月謝を授受することで得だった。この体験は、口コミで紹介された一件の主婦とのことだ。初日そのお宅を訪ねて亭主不在の直感が働いた。何かあるとにらんだが、初めの一ヶ月は子供の学習指導を淡々と続けた。自分で言うのも妙だが、下心を出さないことにかけては得意というより、自然出さないから、むしろ冷静な観察が出来た。亭主不在は生徒からもたらされた。打ち解けて来たある晩、部屋のすみにアルバムの何冊かを認めた。軽い調子で聞くと、予感的中した。ここからごく自然に、母親、つまり奥方が帰り間際に私と玄関口で話しこむようになった。我が顔は不細工と何度も書いた通りだが、童顔だった。あとから聞いたのだが、この主婦(仮名・朝子)は、私を学生と勘違いしたらしい。帰り際の長話が毎回となり、ある晩、いや、昭和60年8月12日の晩、帰ろうとしているところへたまたま台所でつけてあったテレビニュース映像が飛び込んできた。日航機123便、ボーイング747SRジャンボ機が群馬県上野村、御巣鷹山(おすたかやま)に激突し、乗客・乗員520名の命を奪った大惨事だった。この印象が強烈なので、不謹慎な話ながら、どうしても二つの想い出が重なる。記憶に間違いがなければ、家庭教師終了時刻は、まだそれほど遅くなかった。その証拠に、子供たちは次の習い事に出かけるので、朝子が車で送って行く予定だった。私もそろそろ辞し去るつもりだった。ところが、朝子はにわかに人なつっこい顔つきになり、子供を送ったらすぐ戻るから、夕飯を食べていかないかと、突然誘った。次の家庭教師宅までは目と鼻の先だが、ややあせりも感じた。なるべく授業開始時刻までに余裕をもって到着せねばならない。それでも、厚意を断るのは悪い、というより、ここから実は下心が頭をもたげて来た。彼女の言う通り、車で去ったと思ったら、すぐに戻って来て、確かに降りて来たのは彼女一人だけだ。私は早食いを決め込んで、出された夕飯にはしをつけた。ところが、食事が終わったあと、例の気持ちが悪くなる神経症が襲って来た。だが「吐き気がする」とは言えなかった。つまり信用をなくして、断られることへの懸念が働くのがこの稼業を始めて以来の常だったから、代わりに「頭痛がする」と告げた。すると、てきぱきと隣室の日本間に床(とこ)をのべてくれて、彼女は少し休んで行ってくれと言う。間男どころではない。本当はこみあげる吐き気との闘いだった。朝子も、気を利かせてからかみを閉め、テレビのスイッチも切ってくれた。シンと静まりかえった中で、私は苦痛をこらえていた。ほどなく別の神経が参るのか、睡魔が襲うようになると、この病の症状が潮が引くように消えていく。目覚めると、真っ暗な部屋に私一人だった。すぐにスタンドの灯りをつけ腕時計を見て、次のお宅の家庭教師時刻をやや過ぎているのを知って急ぎ荷物をまとめると、物音を察してか、彼女がからかみをスッとあけて入って来た。「おかげさまで頭痛が軽くなりましたが、次のお宅へうかがう時間を過ぎてしまいました。お電話お借りしてよろしいでしょうか ? 」と頼むと、既に連絡しておいたから、あと30分くらいゆっくりして行けばいかがかと勧めてくれた。朝子の家(うち)の次のお宅こそ、ここを紹介してくれた家だった。私たちはよもやまの話をした。だが朝子は気さくというのとは違う親しさを見せた。私より五つほど年上の女だった。かなりの早婚で、既に二人の子があった。「奥さん、淋しくはありませんか・・ ? 」、「ええ、やはり夫が海外赴任で・・」、「奥さん、初めてお邪魔した時から私は・・」、「え ? あ、いけませんわ、私には夫が・・」。現実はこのようなアップテンポの展開とはならない。だから私はつまらぬ不倫ビデオなぞが気に入らぬのだ。と、力んでも仕方ないが。この晩はこれでおしまい。ただ、私が朝子に見て取った予感は的中した。彼女はやはり淋しかった。その無聊(ぶりょう)を不細工な顔だけ若く見える私に訴えんとして来るようになった。朝子のプロフィール/ 身長158cm、痩身(そうしん)で顔は面長、目にあどけなさがあり、面差し(おもざし)全体がつやっぽさを感じさせた。ルックスは並。バストおよそ100が私の目を射た。季節は真夏だったので、普段着のTシャツの胸がどうしてもまぶしかった。私と朝子がわりない仲となる瞬間は、次の機会に書く。なーんて、こんなバカ日記、誰も読まないだろうが、長年の雑誌作りの習慣ゆえ、「待て、次回 ! ! 」。