巣鴨プリズンに響いた「君たちは来なさんなよ ! 」
日記千件記念、戦勝国報復裁判にもの申す ! !東京裁判・戦犯裁判に関することは、手持ちの資料だけを見ても、ワードの下書きに類別して、「その1」、「その2」・・・と、枚挙にいとまなきを、書かずして察しられるほどになる。上坂冬子氏著「償いは済んでいる」(講談社)。表紙の石碑は、サンシャインシティー東北の隅にある巣鴨プリズン処刑場跡の石碑。また、戦犯裁判を、無名の幾多の刑死犠牲者のかたがたに絞った研究では、上坂冬子(かみさか・ふゆこ)さんが、これも多くの著書に述べ、さらに公の場に的確かつ堂々たる論陣を張って、いわれなき罪に刑場の露と消えた人々と、その遺族に、優にやさしいまなざしを向けていらっしゃる。だが、いわゆる戦争遂行上の責任大なる地位にあった人々に触れた記録を読むと、その最期に至るわずかな時日の過ごし方に、感動せずにはおれない将官たちがいたことがわかる。そして、その霊に暖かな視線を注がずにはおれない。生意気なことを言うが、文章とは、そのつづり方によっては、読む人に誤解・偏見を与えるもので、文面の操作の仕方によっては、故意に読む人を誘導できる威力を持つものと断ずる。首尾よく書けるかどうか、一つ試みてみようというのが、今回の趣旨でもあるが、テーマはあくまでも、巣鴨プリズンの露と消えた一将官の潔さと人徳の描出にある。昭和20年、戦争末期のB29による東海地方空襲の時、我が軍もよくこれを迎撃して、東海軍管区内で、米搭乗員44名を捕えた。このうち、空襲標的を軍事施設に限って攻撃したと判断された6名の搭乗員は捕虜扱いとなった。しかし、5月14日の名古屋大空襲の時の捕虜11名は、重要犯として軍法会議にかけ処刑、それ以後の捕虜27名は、無差別爆撃の事実明白ゆえに軍法会議にもかけず処刑した。合計38名の米軍捕虜が、一方的解釈でまたは裁判なしに刑死を余儀なくされる結果となった。終戦後の昭和21年9月、この時の司令官・岡田資(おかだ・たすく)陸軍中将初め、いわゆるBC級戦犯として、20名が巣鴨拘置所に捕えられ、横浜法廷で軍事裁判にかけられた。たとえ空襲とは言え、これは戦闘行為の一環であり、仮にも一旦捕虜として収容した米軍兵士たちを、軍法会議にもかけずに、27名も殺したとなると、この岡田司令官への同情心も薄れるのではないか。もしこの有無を言わさぬ処刑を、人道にもとる残虐な処断だと考え、一片の同情心を犠牲米兵たちに感じるとしたら、拙きながら、私の文章のワナにかかったと見るしかない。私は文献引用にあたり、岡田司令官の罪状が印象づけられるように、文面を操作・調整してつづった。私は岡田資陸軍中将を、徳行厚く、人柄温厚で、自らは潔い最期を体現した立派な軍人と見た。日本の軍隊では「上官の命令は天皇陛下の命令」と、つとに教え込まれて来たからか、ここ横浜に限らず、各地のBC級戦犯法廷で、「上官の命令があったか否か」での議論が盛んだった。だが岡田資陸軍中将は違っていた。法廷の岡田氏は、一瞬もたじろがず、B29の米兵の処刑はすべて自分が命令し実行させたことと明言し、終始、米軍の無差別爆撃の非人道性を非難し続けた。以下、検事と被告(岡田中将)の法廷に於ける応酬をまとめてみる。検事「裁判なしの搭乗員処刑は、文明国の将領の行為として恥とせざるや ? 」被告「爆撃の様相と、その爆撃下、最善を尽くしたる当時の雰囲気を知りての質問なりや ! ? 東海管下数万の老幼婦女を盲爆に失いたる吾等(われら)に、米兵27名の処断は問題とならず」検事「搭乗員を一般捕虜収容所において、戦後まで保管すべきではないか ? 」被告「搭乗員処罰は単に一回の現行犯をもってしたにあらず。取調べの結果、多きは20回、少なくも7,8回の日本空襲体験者であった。しかもその累犯当時、盲爆の不法行為たることは、機上で実見したはず ! その瞬間でも、搭乗員には容易に不法行為なりと察知できたはずである」検事「いずれが、搭乗員を極刑にすべしとのヒントを与えたりや ? 」被告「予は予の判断によりてヒントを得たり。部下の検察の要はない ! 」以上、法廷の問答のダイジェスト。以下に岡田中将の獄中記の一部を掲げる。「死の宣告は必然だが、覚悟はとくの昔に完了だ。われは、国敗れ、全軍潰れた日本陸軍の将軍だ。この法廷で、若い多数の部下を救い得たら、それで本望である。―以下略―」そして昭和23年5月18日、判決が出る。計20名の被告たちに下った量刑は、絞首刑・終身刑・重労(10年~30年)の三つだったが、絞首刑は岡田中将ただ一人の結果となった。岡田中将は死刑囚専用棟に移されたが、上官として部下をかばい通した彼の信望は、周囲の被告たちのあいだで、いやがうえにも高まり、各房訪問の許可時間となるや、熱心な日蓮宗信者でもある岡田中将の房に、仏教の教えや死生観を聞きに来る者があとを絶たなかったという。刑執行の夜、房を出て刑場に行く岡田中将に、獄舎至るところから、「お世話になりました」、「ありがとうございました」と声がかかった。岡田中将はそれらの声にいちいち応じながら、最後の大扉の前に来た時、皆のほうを振り向いて大きな声で言った。「君たちは来なさんなよ ! 」岡田資陸軍中将。明治23年鳥取市に生まれる。鳥取一中から陸軍士官学校、陸大へと進む。昭和24年、9月17日午前零時三十分、巣鴨拘置所で刑死。享年59。追記 / 大東亜戦争末期の、B29による爆撃被害のうち、名古屋市を取り上げただけでも凄まじい。焼失家屋十一万戸以上、死者約七千八百名、負傷者約八千名にのぼった。本文引用文献 / 「日本陸海軍名将名参謀総覧」(新人物往来社)