煙突掃除のブラシが走った夜
とりあえず私は一児の父親ということにしておきます。また身内ネタかと、自分でもこのごろ変化(へんげ)自在の七色仮面のようなテーマの豊かさがないと思うのですが、これには某婦人から忠告とストップがかかっています。身内を日記に書くには、以下のことを厳守せよと下知(げち)を受けました。なお、この見慣れない言葉は、私は「剣客商売」で知りました。日本語にはまだまだ知らない言葉が多いことを痛感しました。この「下知」は、「げじ」とも読むらしいです。らしいは変でした。国語辞書にあったのです。ところでこのげじは、カタカナではもちろん「ゲジ」と書きます。これはある不気味な体形の生物の名称として読むことも出来ます。たいていのかたは、この二字を二回続けて読むのではないかと思います。つまり「ゲジゲジ」ですね。あ、すみません。気分の悪い人、食事中の人は読まないことをお勧めします。さて、このゲジゲジの実物をご覧になったかたは、どれくらいいるでしょうか。確かに図鑑などには図鑑というくらいだから、図解で載っているし、解説もあるでしょう。なお、私が再三話題にした怪虫の中の怪虫「ムカデ」は、私自身の凄まじい経験もあり、ずいぶんなじみに( ? )なりました。目測最大のムカデは体長20cmほどありました。私はいささか意地悪なところがあります。人がいやがるものを見せることを快とするタチなのです。私と縁ある人はこれを悪趣味と呼んではばかりません。「はばかりながら便所へ行こう」。つまらないギャグでしたが、私が言い出したのではありません。さての上にもさて、このように話を脱線させると、怒りながらも喜ぶ変な婦人が私の知る限り一人いますが、誰かは伏せておきます。どこの誰かは言えないけれど、だーれもみんな知ってないから、書けるのです。ゲジゲジに戻ります。私は今、平成元年に建てた家に住んでいますが、それ以前はわずか数百メートル離れた平屋に住んでいました。父が建てた家です。今は跡形もないどころか、第二東名高速の橋梁工事で、巨大な橋脚がかつての自宅のあたりを通っています。この平屋にいた頃のある夜、いつものように遅い入浴を済ませると、私の部屋に入り、寝床に横になろうとしました。人間の視界と、その機能とは見事なものです。部屋に入ります。ちっぽけなテレビが置いてあります。ビデオデッキも、電気スタンドも、もちろんふとんも、机も、作りかけの家屋のミニチュアも、皆視界に入ります。これだけなら、いつもと同じ何の変哲もない、私の日本間の景色ですが、この中にたった一つだけ、いつもと違う物が景色に花を添えていると( ? )すぐに視界の異変に気づきます。見慣れない何かが目に入った瞬間、人間はそれが初めて見るおぞましいものであっても、これまた一瞬、自分の知っている別の物を連想して、一瞬後、似て非なるおぞましい「それ」を認識します。この時、ほとんど戦慄します。これがゲジゲジでした。私が連想したのは昔よく煙突掃除に使った黒いブラシのような道具でした。この黒いブラシが確かに立っているのがわかります。ブラシが置かれているのではありません。横に長く伸びてはいるのですが、立っています。生き物だとわかり、同時にゲジゲジと判明します。この時私は足がすくんで、しばらく動けません。黒いブラシは、たいした感知能力の持ち主でした。私は凍りついたように立っていただけなのに、もうテレビの後ろへと隠れ始めていたのです。私の部屋にはすぐに手の届くところにキンチョールの類いが置いてあります。足がすくんだのはしばしの間で、すぐにそのスプレーを手にとって、隠れていると察したあたりへ、海底軍艦の冷線砲みたいに、シューッと噴きかけました。ムカデもゲジゲジもキンチョール、フマキラーの類いに極めて弱い怪虫です。すぐにテレビの陰から出て来ましたが、出て来かたがいけません。私のほうへ飛びかかるように、出て来たのです。本人は苦し紛れなのに違いないのですが、何も毒のスプレーという武器を持つ私に向かって来なくてもいいではないかと思いました。忘れていました。ゲジゲジの大きさはムカデの比ではありません。目測体長50cmほどもありました。だから煙突掃除のブラシにたとえたのです。胴体よりも長大な足がなおさら、体長を大きく見せているとも言えます。仮にこれが本物の煙突掃除のブラシが、何かの偶然で動いたのだったとしても、やはりおぞましく恐ろしいと思います。私は思わず二、三歩あとずさっていました。怪虫俊敏なり ! 気がつくと、姿が見えません。「バカな ! ? たった今、こちらへ向かって来たばかりではないか、どこへ消えたッ ! ? 」もし、このつまらない文を読んで下さっている人がいたら、怪虫ゲジゲジはどこにいたと思います ?この文を打っている今、全身が総毛立ちました。つまり鳥肌が立ったのです。石油ファンヒーターで暖かいのに、寒くなりました。これも一種のトラウマというのでしょうか。おぞましい記憶は印象は未だに新鮮です。動く煙突掃除のブラシは、私のすぐ後ろにいました。ここでパニックという言葉を使うのがふさわしいと思います。窮鼠猫をかむと言いますが、窮動く煙突掃除のブラシ人間に迫るの構図です。私はサッと、今度は元ゲジゲジがいたほうへと飛びすさりました。この次の展開はといいますと・・・。ゲジゲジは、その黒い残像を一瞬残したと思うまもなくトンネルの闇をとおって、じゃなかった、再びどこかへ姿を消しました。ここから長い静寂が続きました。私の身体はどうなっていたかというと・・。またも凍りついたように動けなくなって、しかもひざが笑い始めていました。「あはははッ」などと、寒くなる冗談を書いている場合ではありません。私は今、昭和60年ごろにタイムスリップしています。恐ろしい静寂です。長い恐怖の時間が経過しました。意を決して、ヘボな拳法の気合を発しました。すなわち「エイッ ! 」。ゲジゲジは、いきなり出現しました。どこから出て来たかがわからないほど速いのです。まさしく忍術です。消える時も一瞬なら現われる時も一瞬です。でもこの時は私のほうへは向かって来ず、目の前をほぼ真横に走りました。横に動く物体ならば目で追うことが出来ます。すかさずスプレーの第二撃目を浴びせました。動く黒いブラシは、ようやくその動きを鈍らせ、やがてその場にパタッと倒れて、余り動かなくなりました。ただ、黒くて長いたくさんの足だけはせわしなく動いています。体長50cmの胴体が動きをとめつつあったのです。ここでやや時間経過あり。私はこの巨大な黒いブラシをどうしたものか迷いませんでした。もう遅いから寝ようと決め、文字通り虫の息となった怪虫からわずか数十cm離れた枕元に向かい、それでも恐る恐るふとんに横になり、ここで一大決心をして、電気スタンドを消して、目をつぶりました。翌朝、完全に息絶えた怪虫を大きな新聞紙で包み、裏庭へ出て、たき火をするように火葬しました。少しイヤな、そうです、たんぱく質が燃える時のにおいが鼻を刺しました。初めの話題からとんでもないほど、かけ離れてしまいましたが、億劫なのでこのまま掲載します。とにかく、日記を書く意欲が出ると、なりふりかまわなくなるので、文章のまとまりなど、かけらもありません。文筆家には到底なれないと感ずるゆえんでもあります。最後に、このゲジ(ゲジゲジ)について、学術的解説を付して、この駄文を終わることとします。ゲジはゲジゲジとも呼び、ムカデの近縁で、北海道を除く日本各地に分布します。観光地の公衆便所のカベにもはりついていることがあります。もちろん、男子小用の所です。体長2cmほどで(ウソつけ。絶対50cmぐらいあったぞ)、歩脚は15対。オオゲジというのになると、メスは体長6cmほどにもなり(ウソですよ。もっと大きいのがいるのですよ)足も巨大です。足も全部入れて50cmとしても、胴体だけで20cmくらいはありました。室内害虫を捕食する有益無害の動物ですが、姿や動作が嫌われます(当たり前です)。以上、昭和39年刊行の日本百科大事典(小学館)より抜粋、悪態つきながら書きました。ついでにこの百科事典、ムカデの項目でも、その体長をとってもちっちゃく書いてありましたが、これもウソか誤りです。更についでに少しだけ書きますが、私の部屋には巨大カマドウマも出現しました。これについても、同事典には、体長を小さく書いてあります。そして、岩場などに棲むと書いてありましたが、私の部屋にも棲んでいたのです。