外出の味方リュックサックさん、お世話になりました。
「外出に使ったリュックサック、お世話になりました。旧から新へ」いつ買ったかは覚えていない。覚えていたら、西暦何年とまでは書けるから、そこまで書けない程度の記憶となる。ただし、買った店が既に閉店して、今はコンビニエンス・ストアになっているのはだいたい当たっていると思う。思うというのは、かつてリュックサックを買った店が閉店したそのあと、寸分違わぬ位置に開店することはまずないからだ。このだいぶくたびれたリュック、本当にお世話になった。第一、買う時に店員が、ていねいにこちらの希望する品物をさがしてくれた。結果、使い勝手が良く、なかなか手放すというか、買い替える気にはならなかった。なお、薄れる記憶がよみがえりかかることがある。こうして書きながらである。ものを書くというのは、連想力を呼び起こしてくれる力があるのではないか。前から漠然と考えていた。亡き母の認知症のことはほとんど書くまいと思っているが、この経験が母への追慕の情を弱めたり鈍らせたりしたことは一度もない。今や意識せずとも母は夢に出て来てくれるが、5,60代の元気な姿のこともあり、また実に既に中学生の時、交通事故死した祖母が元気に出て来て、逆に母は認知症の形でなどということもあるが、その時の祖母は、何恥じるでもない生前の人柄そのままで、いよいよ年をとった私もまんざらでもない。「もうじき逝くからね」と目が覚めてから、ひそかに思うくらいのごく自然な心境だ。かつて「認知症だけはなりたくないですね」と、私の母の容態を知っていながら平然と告げた者がいたが、もはや過去のことだ。私の母への評価・想いにはいささかの変化もない。あるとすれば、「成らば我れも即座に逝かん」と心沈んでいた一年ほど前までの思いが、何かをふっきったように消え去ったことだ。その母のことを想うまでもなく、このごろ母より私のほうが脳の衰えは早いのではないかと思えることがいささか起こっている。物忘れと勘違いが多くなったのだ。度忘れというのは昨年より顕著になった。例えばこの世代としては珍しくか、私は生まれる前のいわゆる懐メロが好きで、かなりの数を歌集無しで歌えると思っていたのだが、さて歌おうという時、「おや、何んだっけ」と一番の歌詞さえ出なくて、我れながらあきれることもしばしば。さらに曲名を思い浮かべただけで、歌手の名前も当たり前のようによみがえったものだが、これが出なくなった。例えば「異国の丘」。明らかに生まれる前のヒット曲だが、歌手名が出なくなったことがある。そしてなぜかこれを書いている今、容易に出て来る。竹山逸郎(たけやま・いつろう)氏だ。同名の新東宝映画は、ほぼ同じ年の公開のはずだが、いかんせん昭和何年と正確な数字が出ない。調べると昭和24年だった。亡き兄の誕生年だ。吉田正氏作曲の「異国の丘」は前年、昭和23年発売である。ただし、こびりつくように脳裡に焼き付いている事柄がある。それもすべてでないのはいい加減なものであるが。つまり映画「異国の丘」に子役として出演したバイオリニストの童子のことがウィキペディアに解説されていない。「そんなバカな ! こういう人をこそ、さらしもの興味でなく、敬意を込めてエピソード紹介すべきでないのか ! ?」と不愉快な思いだった。多分無理と思いつつも、検索内容を変えた。『異国の丘と少年バイオリニスト』で検索し直したら、どうやら少年バイオリニストとの言葉が奏効したようで、たちまちウィキペディアに現われた。忘れていたご本人の名前もわかった。映画「異国の丘」では、上原謙演じる抑留中の父親の身を案じつつ帰りを待つ母子の子役として、この悲劇の天才バイオリニスト『渡辺茂夫』さんが軽々とバイオリンで「異国の丘」を弾くシーンがたっぷり映し出される。渡辺茂夫さんは、のちにジュリアード音楽院に学ぶこととなるほどの神童ぶりだが、それこそ異国の地アメリカで、ストレスが重なり、その後の運命を変える出来事に見舞われるが、ここでは措(お)く。私がただ一つ自慢──というほどでもないが、曲さえ覚えれば軽々と吹けるハーモニカでは、残念ながら、半音機能のない複音ハーモニカでは演奏出来ないが、小学校の時に家にあったSP盤78回転レコードで聴いていっぺんに気に入り、その後今日に至るまで『異国の丘』は愛好歌の一つになっている。大事なことを忘れても、これだけの事柄を書けるので、こうしてワードに書いていても、やはり文章趣味だったのかとの思いと共に、いろいろ書くうち、連想が連想を呼んで、ある時こつ然と記憶がよみがえる。もちろん、書く意欲を失った時は、もはやブログともお別れということだろうが。テーマは「リュックサックさん、お世話になりました」だったが、何ゆえここまで話が脱線したか、これは書いている目下はわからない。ワードのページを戻ってさがすのほかなし。・・・・・。なるほど。リュックから連想となり母を想い出し、物忘れのこととなった。くどいが、私は介護中の母の印象だけを我が母と認めるような気にはならない。というより、要介護者となるのも、人の星の一つだが、その人の来(こ)し方の聡明利発なること、また偽りにあらずと、こもごもの思いで思っている。他人にはわかるまいし、わからずとも良し。「認知症だけはなりたくないですね」と平然とぬかした者のことは、過去のこと。ただ、認知症初期の母は、もしかすると明け暮れへの違和感を自ら覚えて、とまどい、あるいは悩んでもいたのではないかと、ふと考えることがある。母のケアマネさんから聞いた話にこんなものがある。「認知症と言っても、初めはある意味で本人には不快なものですよ。例えばある朝目が覚めて、自分のいる部屋を改めてながめて、『ここは・・ ? あ、そうか、わたしの部屋なんだ』と思いつく。こんな歳月ののち、知らないまに自分を文字通り認知することも出来なくなってしまう」母は、はた目にも物忘れがひどくなったと思う2001年以後、朝起きては庭の落ち葉拾いに専念するようになった。今でも母の心中いかなりしやと、忖度の念消え去ることはない。しかし母は、自尊心は充分あった。これは決して父の悪口ではないが、翌2002年夏八月、当時まだあった1800ccの車で、母と私の二人、琵琶湖日帰りドライブに出かけた折、道がわからなくなってイライラしている私を見とがめ、「ほら、ガソリンも減って来たよ。スタンドで補給しながら店員さんに地理を教わったらどお ? 」と勧めてくれた。これだけしっかりした判断を出来たのだった。それでいて普段、かかって来た電話に出て応対したは良いが、話し終わったとたん、誰からどんな用件でかかった電話だったかを思い出せない。だがそれしきのことどうだと開き直りたい。必要な事柄なら再び三たび電話をかければ済むことであろう。果たして電話はかかって来るのだ。琵琶湖ドライブから帰宅してまもなく、母はハンドバッグがないとあわてた。父が「全くもう。琵琶湖でなくしたんだろう。あきらめるしかあるまい」と母の物忘れを難じたが、ほどなく部屋のどこかに置いたハンドバッグが見つかり、一安心となった。この時母は、父に対して「何を言ってるんだい。ちゃんと持って帰って来たのよ」と返した。もはや父を責めるつもりは毛頭ないが、認知症の症状次第に襲いかかる数年間の母の胸中を思うと、簡単に「認知症だけはご免だ」なぞとは言えないのだ。私は、頭が涼しくしっかりしていてガンにかかり、その苦しみと恐怖におびえて死期を迎えるより、身体(からだ)だけ元気で認知症にかかるほうが良いとさえ思える。さて、閑話休題。かつて店員さんがていねいにさがし選んでくれたリュックは、誠に見事な品物だった。丈夫なつくりなのはもちろん、チャックがついているポケットが複数あって、背中にしょった時、肩から両脇を通してかける部分も、それだけでは急ぎ歩くうちに肩からハズれるおそれありと、この二つの部分を結ぶための別のパーツが用意されていて、これがずいぶん役に立った。全く判別出来ないが、バイクツーリングでは、必ずリュックをしょっていた。バイクはホンダ・ホーネット(900cc)。書いているうちに、「あるいはもはや十年は充分経ったのでは」とも思えて来た。「いや、二十年までは経たなくとも、十五年くらいは優に過ぎたのでは」とも思えて来た。それかあらぬか、十年を優に過ぎた頃、今書いた肩から脇を経由するようにかける大事なパーツの縫い目が弱くなったように感じた。これが切れたら、例えば外出先だと、帰宅までに支障が出ると思い、その時はタコ糸用の針を用意し、応急処置として補強縫いをした。ヘタではあるが、タコ糸を縫い付けるのは、かがり縫いの変形というべきか、自己流だ。かがり縫いの変形っぽい縫い方は運針の出来ない私には救いとなったが、これはごくたまに雑巾を作る時にも使う。糸の使用量は運針の何倍かになる。ただしボタン付けはヘタながらも、普通の縫い方だし、それしかやりようがない。だが今度は、各部に工夫をこらして用意されたチャックが引っかかるようになった。チャックは動かなくなることもあり、これが壊れたら、リュックの機能はそれまでとなるように思えたので、頃合いをみて、買い替えておこうと、去年夏から思っていた。暮れから最近にかけてであろうか、チャックの不具合が気になり出した。出先で用が済み、さてチャックを閉めてと思ったとたん、引っかかった。これだけで私はパニックになる。何んとかチャックが動いてくれて、事なきを得たが、いよいよ気になる。ようやく春めいて来たこのころになって、然るべきスーパーで目星をつけておこうという気になり、各種バッグを豊富に品ぞろえしてある一軒のスーパーで旧タイプによく似たものを見つけ、その時はカラーが黒しかなかったので、店員さんに告げたが、ていねいに連絡してくれるような感じだったので、あわてて「またうかがいますから」と言って辞し、ほとんど間を置かずに出かけると、ブルーのリュックが入荷していたので、迷わず買った。当然だろうが、かつて使ったものと同じ使い勝手のものはない。なるべく類似の構造のものを選ぶ。長年お世話になったリュックを手にとると、なるほど経年劣化を痛感する。酷使もし、だいぶお世話になった。中身を入れ替えていよいよ新しいリュックを肩にかけるようになるのはいつか、これがわからない。ついついお世話になったものを手にとって、中に必要なものなど入れてしまうのだ。人生の残り時間は、これは一寸さきはヤミだから、平常の意識があり、足腰立つうちに行動せねばならない。古いリュックさん、お世話になりました。そう言いつつ、思いつつも、再び三たび古いリュックをかついで出かけようとするので、そろそろ切り替えねばと思うが、思い切りも悪く生れついたようなのだ。改めて十年余りは優にお世話になったリュックサックさん、ありがとうございました。