コラムの神様・山本夏彦氏の世界「核家族礼讃を排す」
再録・山本夏彦コラムの世界『核家族礼讃を排す』2003.12.13 コラムの虫騒げど、未だ書けず。 カテゴリ:カテゴリー未分類 本物のコラムを書かんと欲して未だ書けぬ。既に書いた通り、手本は故・山本夏彦氏のコラムである。世間にエッセイストと称する者はやたらにいるが、彼らの書くほとんどは身辺雑記の域を出ず、たまに文明批評を書けば環境破壊を憂えるなど、新聞などで知ったことのオウム返しに過ぎぬ。エッセイですらない。ましてコラムとなると、これをまともに書いた文筆家の文章に触れることほとんど皆無である。山本コラムの真髄はレトリック(修辞法)にある。修辞法とは言葉を巧みに文章にとりいれて、表現見事に整える技法だが、これを自在に操る操觚者(そうこしゃ)は、私の見る限り山本夏彦氏一人である。それがいかなるものか、自力でお手本を再現するには自信がない。そこで山本コラムを頼ることとなる。一つ見事な一文がある。かなり長文になるので抄録抜粋では、本来のコラムを損なうおそれがあるが、挑んでみる。以下、私の文章にあらず、山本氏の文章を少し変えただけのものだ。タイトルは「核家族礼讃を排す」。既に昭和42年「文藝春秋」から発行されたコラム集の中の一つである。初掲載当時、「カテゴリー未分類」だったので、見つけるのが困難だった。以下、まことに恐れ入るが、抄録抜粋する。〇一所帯四人以下になった。ここには年寄りはいない。核家族は家族ではない。年寄りのいない家庭は家庭ではない。年寄がいないと衣食住の伝統は断絶する。着物を縫ってもらえなくなる。おふくろの味が滅びる。ついには言葉が通じなくなる。互いに言葉が通じなくなっては文明ではない、野蛮である。古い食卓にも一家の歴史がきざまれている。それとは知らず嫁に来たばかりの女は、この食卓を不潔だと、はやりのデコラのそれに改めようと言い出し、亭主と姑は初めて他人が入って来たことに気づくが、反対する理由がない。いわゆるおふくろの味は美々しい料理にはなく、芋の煮っ転がしにある。先祖伝来のものである。その先祖はおろか、父を母を追い出す。嫁が、その候補が断じて譲らぬ条件が両親との別居である。いずれを選ぶと迫られて親を選ぶ男はいない。彼は彼女に追随してまずアパートへ去る。核分裂するのだ。初め別居は若夫婦の理想であり、それが流行になり、そうなればしめたものだ。親たちの抵抗はなくなる。次いでちやほやする。嫁の意を迎え、きずだらけの食卓をデコラにとりかえる。けれどもちやほやする、されるのは幸福に似て不幸である。親たちは嫁に知る限りのことを伝えぬ。常に迎合をこととする。嫁はますます増長して、姑の知識を疎んじ、拒否するようになる。最も拒否するのは、育児に於いてである。若い母親は、ビタミン、カルシウムありとあらゆる栄養を与え、同時代の赤ん坊より大きくしたがる。育児の本を山ほど読んで、例えば抱くと抱き癖がつくと言って、一人赤ん坊を部屋に置き去りにして寝かせる。子守唄も歌わぬ。こうして育った赤ん坊は知らぬ歌を歌える道理がないから、長じて母になっても、次の我が子を抱かず、子守唄を歌わぬ、または歌えぬ。そもそも子を一男一女に限ったのは何ゆえか。子供を二人に限ったのは、貧なるがゆえではない。戦前の如き貧乏は既に去った。その根底には女の助平がありはしないか。ブックメーカーにだまされて、ねむれる女の助平は覚醒したのではないか。妻は怪しいネグリジェを着て、暮夜目を輝かせ、夫を待ち構えている。売笑は法律で失せたが、素人女たちに散って健在である。私は核家族のなかの、一男一女の前途を危ぶむものである。若い母親は危険を伴う遊びを禁ずる。昭和初年の母親も禁じたが、子等は目を盗んで禁じられた遊びを楽しんだ。ケガは無論ある。だがこの経験で危険と安全の境目を学んだ。禁じられた遊びを遊んだことのない子は、動物としての感覚を欠く。彼らはバスで電車で行って、歩くことを知らぬ。横断歩道で車が止まってくれたからといって、反対車線への警戒がおろそかである。時にドライバーの善意はあだになる。台所の包丁は目につくところにおくなという教えがある。ある晩ドロボーが入って、家族を追い詰めた、たまたま台所で、闇にキラリ光るものがあったから、ドロボー変じて居直り強盗になり、一家皆殺しにした。こんな椿事はめったにないが、あり得る。これが厨房の教えとなったのである。代々の経験と工夫がすべてである。核家族が増えると当然知るべきを知らぬものがふえる。ふえると衆をたのんで横車押す。昔は老人と孫との間に会話があった。子等はなんべんも同じ話を聞き、同じ個所で手に汗にぎった。たかが年寄りの話とあなどってはいけない。子等はそれによって過去とつながり、日本の英雄豪傑、妖怪変化となじみになったのである。すなわち日本の子供になったのである。核家族の主宰者はたいていママである。ボキャブラリーは貧しい、というより無に近い。昔話はおろか、いろはかるたも百人一首も知らない。それでいて我が子には本を読めと強いる。不安なのである。漠然たる不安を本に任せて自分は責任をまぬかれる算段なのである。けれども本を読むことは、五十年前、百年前の故人の話を聞くことである。十年前の言葉が初耳でどうして故人と話ができよう。彼らが奈良・京都を見物して感動したと称するのはうろんである。十年前の言語となら断絶して、千年前の古社寺とならつながって、たちまち感服するとは眉唾である。西洋人観光客の目で見物し、西洋人の如く感動したのではないか。在りし日の山本夏彦氏。再び老人のいない家庭は家庭ではない。と言えば老人は喜ぶ。核夫婦はいやな顔をするだろうが早合点である。今の老人はインテリ老人であり、本物の年寄りではない。核家族という言葉は新しいが、実物は早く存在していた。人は住宅という建物に従うから、核夫婦の親たちは何に従って今日に至ったのだろう。文化住宅である。彼らにせの年寄りは、昭和初年の怪しい文化住宅に従って若いと思ううち、いつしか年を取った者たちである。叱る時叱らず、伝えるべきを伝えなかったのは、彼らにせの年寄りである。「君たちの気持ちはわかるよ」などと言えば和気の如きものが生ずるが、そんな親を子は尊敬しない。老人は理解だと思っているが、若者への迎合である。日本語を疎んじ、外国語にばかりかぶれた。伝えるべきおふくろの味を既に知らず、着物も洋服も満足に縫えなかったから、娘に伝わらない。娘はそんな母親に学んだのだ。五十、六十のおやじ、ばあさんのくせして、手水場(ちょうずば)、はばかりと言わず、若者の口まねして孫を抱っこして「ママさんおトイレ」などと、猫なで声を出す。若い者の口まねを事として、伝統を伝える意志も能力もなければ、若夫婦は親たちと住んでも、何の得るところもない。追い出される、または進んで出て行くのも当然である。けれどもこれは、旧式の核家族が新式の核家族に追われたにすぎない。中身が大同小異なら、やがてはこの新式も、その子供たちから追われるだろう。〇以上山本夏彦氏著「茶の間の正義」の中から、「核家族礼讃を排す」を抄録した。凡俗のエッセイストに書けるのは、「老人のいない家庭は家庭ではない」という一テーマに絞って、大家族を讃える薄っぺらいテーマ内容だけである。または、核家族の肩を一方的に持った内容だけである。これだけ鋭く突き刺すような現状一刀両断のコラムは、有職故実に詳しく、更に人間通、世間通の人でなければ書けぬ。では世間通になるには、例えば友人を持ち、広く世間へ出て見聞を広げさえすればよいかというと、これがそうでもない。だいたい友人の多くはこれまた俗物であり、有能ならざる者である。山本夏彦氏はインテリア雑誌「室内」の社長だった。だが社員に「社長」と呼ばせず、「山本さん」と呼ばせるとも聞いた。海外なら若年の頃、フランスに長期滞在して、人間に東西なしとも悟っている。自らを「ダメの人」と称し、己れの内奥を見て、つとにこの世は生きるに値せずと結論している。自殺未遂を二度経験している。「ロバは旅に出てもウマになって帰って来ることはない」という西洋の箴言(しんげん)を好んで使った。要するに知識と学問のない者が海外旅行しても、得るところなしというのだ。又、それゆえか「戸を出でずして天下を知る」とも言っている。山本氏は生前、主宰する工作社の編集兼発行人として、多忙だった。その山本夏彦氏は、胃がんで余命いくばくもなきを知ってなお、ペンを持つ右腕には必ず点滴をさせず、死の直前まで「週刊新潮」連載コラムを執筆し続けた(山本夏彦氏は大正四年生まれ、平成十四年没、享年87)。この人の存在あって、私も又、生きるに値せぬこの世を何とか生きている。なまじ人生を全うすべしとしか言わぬ凡百の文化人の百筆より、この人の「人生生きるに値せず」が私を励ました。人は生を全うすべしというばかりが能ではないことを書き続けた山本コラムにより、むしろ私は元気づけられたのである。たまには、人生観たるもの、一度どん底まで落とし込んでみてはどうかと思う。すると、今まで見えなかったものが見えて来て、かえって気力が出て来て、不思議や私のような者は、自然生き続けるのである。と、偉そうなゴタクを並べましたが、私は去年12月で65歳になったもので、ブログのジャンルも「車・バイク」に設定してあります。目下の愛車は不細工バイクともけなされる「スズキバンバン200」。依然信号待ちなどで例えニュートラルにしていてもストールはありますが、200cc程度なのに、街乗りでこれだけ軽快に走ってくれるバイクがあったとは、驚きましたし、ありがたいことだと思います。なお、ストール対策はただひたすらスロットルを吹かし続けることです。そのうちバンバン特集など書けたら書きたいところです。「スズキバンバン200主要諸元」最高出力16ps/8000rpm。最大トルク1.5kg・m/6500rpm。車重128kg。シート高770mm。車格はファニーな形状ゆえか大柄とは見えないが、全長の単純比較だと、カワサキ・ゼファー750の2105mmより長い2140mmである。