破れかぶれSF日記「一レディとの再会」
妄想男の『妄想日記』を申そう。「そんな世迷言はもうよそう」などと言われそうだが、1000件を超えたら、いよいよ次に計画中の『日記閉鎖』Xデーを意識しつつ、なりふり構わなくしようとの方針に変えたから、思いつくまま書く。世の多くの婦人は、俳優・タレントに熱を上げることはあっても、夫君以外の一般の男に色気を再燃させることは実行しないと察する。しかし男は別だ。再三書くこととなるが、コラムの師と仰ぐ故・山本夏彦氏も、80代で恋をしたことを、ご長男の著書「夏彦の影法師」で知って、驚くと共にホッとした。かつて細君はいるかと問われるたび、「独身です」とまことに己の不甲斐なさを覚えると共に、否定して来たが、私の立場はやや複雑だ。平成元年、今の場所に新築して間もないある夜の授業中も、数人の高校生の紅一点の生徒に唐突に問われた。曰く。「先生は恋人を持った経験はありますか ? 」この問いから間髪を入れず、つまり私がしどろもどろになっているあいだに、まるで私の答えを見透かしたような言葉が再び投げられた。「私、経験ないと思うなぁ・・・」このかん、残る男子たち、普段はむしろやかましくて閉口するばかりなのに、寂(せき)として声もなし。私の顔に「哀れなり」と同情すべき色の浮かぶを感じ取ったと察しられる。相手の弱みを知って、わざと問う、女特有の底意地の悪さが、この女子の顔にハッキリ表われていた。弁解は野暮と判断したから、私はただ黙っていた。答えようがない。15,6の女子高校生を納得させる言葉に使う短い単語がそもそもなかった。未だ悔しさとむなしさが脳裏を巡る記憶となっている。もしあの時弁解していたら、以下のくだくだしい話しかたになったはずだ。「相手が今の君たちと同じくらいの年齢の時知り合ったけど、その後大学卒業とほとんど同時にほかの人と結婚し、まもなく夫婦仲がこじれて離婚の危機が迫り、そのさなかに私と再会して、今、実にじれったい思いをこらえつつ、少しずつ距離を当時に近づけつつある、一人の婦人がいることはいるよ」。これでも説明不足である。私のことばかり書くのも、我れながら飽きつつあるから、無断ながら、別人の、私より更に曲折多き末に結ばれた例を挙げる。彼は私が楽天日記を開設して数日後くらいに、ただ一度コメントをくれて以後、交際をやめた。お互いに合わない性格と気づいたからだ。パソコン購入はもはや思い出せない。本物の日記帳にも記録していない。プロバイダー契約年でわずかに推し量ると、平成13年(2001)年かも知れない。出会いはやはりオートバイである。私はハイパー・リンク操作を知らなかったから、仕方なくワードでホームページにとりかかり、これはハイパー・リンク機能を持たないから、ただ上から下へザーッと流れるだけのホームページを完成した。前にも書いたが、まず初めてのテーマは「戦艦大和」鎮魂のホームページ、そして次に「私のオートバイ人生」を作り、更に「トーカイ・ネットワーク・クラブ」の「仲間募集」欄に投稿し、趣味仲間を求めた。この時、好意的にメールを寄こし始めたのが、先に書いたある人だった。もはや付き合いがなくなった今、本人に失礼がないように気をつけながら、そのドラマチックな半生をつづる。彼のある意味で大胆な人生に比して、私の経験談なぞ、消し飛ぶほどである。彼は高校時代、ある女子中学生と交際開始した。私がせんさくしないから、その後の詳細は不明だが、この女子とは別れ、のち、彼は適齢で結婚し、子供をもうけた。その後離婚、親権を彼が取った。のち二度目の結婚するも再び離婚。彼のお子さんは今立派に成人し独立しているが、二度目の細君とのあいだに子をもうけたかどうかは聞かなかった。彼は40代初めにかなり進行した大腸ガンに侵され入院。絶頂期100kgあった体重は日に日に激減した。更に、危篤に陥ること実に四たび、四回目には心肺停止となり、集中治療室で切迫した状況下、治療を受ける。奇跡としか言いようがない回復を見せ、やがて元の病室に戻る。これと前後して、かつて中学生だった婦人が信じがたき近所に生活することを知り、再会。彼女の献身の看病を得ることとなる。このかんに次第にお互いへの情が再燃、結婚を誓う。一時、体重は40kg減ったが、元々の体重と体力と強運、そして何より、再会なった彼女の看病を得て、快方に向かう。二人は結婚した。そしてこれは新婚カップルである。これまたせんさくしなかったが、多分二人のあいだに子供はいない。代わりに、とても可愛い犬を飼うこととなり、その可愛がりようひとかたでない。柴犬の雑種だったか。ただし体毛の色つや、毛並みすこぶる美しく、全体に黒いその姿は、飼い主でなくとも間違いなく見とれた。以上の話は、作り話の如くだが実話で、少なくも私の手許に、夫婦の記念写真・愛犬の写真が残っている。交際は自然消滅したが、彼とはそれまでほぼ毎日メール交換した。その最後とも言えるメールに彼は、次の意味の言葉を送って来た。「私たちは急接近し過ぎましたね」。今、私は、この訣別予告のような文面の言葉を、淋しくも思わない。人には相性がある。さて、もう一つ、これこそでっち上げ物語を書く。さかのぼって2005年夏は、やはり暑い夏だった。私は、ストーカーまがいのことは必ずすべからずと自分に言い聞かせながら、茨城県を目指して、ナナハンで出発した。身の安全を考え、高速道路を避け、時間はかかろうが、一般道を走った。しかも国道246号線バイパスが既に通っているにもかかわらず、車がスピードを出し過ぎるバイパスをこれまた避けて、旧246号線を選んだ。茨城県に到達するための行程は、まず埼玉県を通過する進路をとった。かつて兄が埼玉県所沢に住んでいたので、ここまでのルートは、必ずしもスムーズには行かなかったものの、何とか通過出来た。東京都内を通らなかったのは、大都市圏の走行に自信がなかったからだ。ただし、都内ではないが中央高速の終点にあたる八王子市は通る。更に所沢通過後、千葉県柏市あたりをかすめるようにほんのしばし、走ることとなる。最後近く、霞ヶ浦南端を通って、目的地に着いた。ここでいけないと知りつつも、本心の目的地へオートバイを向けかかった。「ダメだ ! 」と思い直し、とりあえず『鹿島スタジアム』に向かった。見事なドームの写真を何枚か撮影し終わったら、再び件(くだん)の念が頭をもたげて来た。更にまた自ら否定した。「その場所に今も勤務するかどうか、わからないし、勤務先の名称は同じでも、本人が、いつどこで働いているかはわからないはずだと言っていたではないか」と、かつての交流を思い出した。「180度反転よーそろー」と、力なくつぶやくと、アクセルをやや大きくあけた。たちまちナナハンの加速で、車体は私の体を路上はるかな向うへと運び出した。「駅ぐらいは見ておこう」と思った時、私は卑劣な考えがまたもむくむく頭をもたげ始めたのを知ったが、もはや止められなかった。ヘルメットを脱ぎ、駅の写真を更に数枚撮った。そして、いるわけはないと思いつつも、ある場所に車体を向けて走り出した。ほどなく着くと、私はヘルメットをかぶったまま、その建物を見つめた。「さて見納めだ。生死もわからない。いや・・・多分何かの良縁を得て、そしてそんなことをわざわざ知らせる義理でもないから、平穏な生活をしているのだろう。・・・さあ、帰途につく頃だ」エンジンをかけっ放しのまま、思いを込めた建物に別れを告げ、進路を変えて走り出そうとしたその時。「あの、失礼ですが、あなたは・・・」という澄んだ声を背中に聞いた。振り返ると、その端正な姿形はわずかに画像で知っていたけれど、明らかに生身の実物のルックス良き、一人のレディが、意外に普段着っぽい服装で立っていた。あとで聞いたのだが、私はこのあたりをナナハンでのろのろ行ったり来たりしていたらしい。住み慣れた土地ゆえ、彼女の視界にほとんどずっと私のオートバイがあった。近くのスーパーに車を止めて、急いで出て来たら、相変わらず私がうろうろしていたということだった。返す言葉のあろうはずもなかった。そのどぎまぎした私の様子を彼女が救ってくれた。「海岸が近いから、よろしければ行きませんか・・・」私は素直にうなずき、やがて彼女の運転する車のあとからついて行った。助手席に人影を見た気がした。果たして、海岸に着くと、彼女はきちんと装着したチャイルド・シートをはずして、一人の幼児を抱っこして降ろし、後部に備えたベビーカーに乗せて、こちらにやって来た。「お幸せになっていたんですね。よかった・・・」よくなかった。この瞬間、胸に目に見えぬ刃物が突き刺さった感覚に襲われた。「私も余り若くないので、一人は授かりましたが・・・でも、もう一人は欲しいと思いながらも、まだ主人との決心がつかなくて・・・」私は半ば上の空だった。覚えず、押し寄せる波の、はるか彼方の海景に遠い視線を送っていた。「この向うに彼女が訪れたサイパンがある・・・」気が動転していた。この向うは更なる広漠たる太平洋で、更に向うは北米大陸あたりだ。日がかなり高くなっていた。私は無性に帰りたくなった。「あの、今夜のお泊りは・・ ? 」私は出まかせの答えを返した。「無計画に飛び出したツーリングの習慣で、変な感じかも知れませんが、モーテルの空室をさがして、そこで泊まる手段が、意外と便利なんです」彼女と別れた私は、ひたすらオートバイを走らせた。疲れを感じる神経が鈍磨し、と言うより、神経が昂ぶって、かえって体力だけが恨めしいほど残っているのを感じた。とっぷり日が暮れて、夜になってから、ようやく富士市の自宅に着いた。