破局と再会シリーズ・不可解な娘の電話
前号までのあらすじ。・・なんて、不人気サイトなれば、我ながらむなしいことをしているとわかるが、とにかく一度はマスコミ就職、もっと詳しく言えば、月刊少年誌の編集者になるのが夢だったくらいだから、その頃に思いをはせて書く。ある平日、文芸部の丸子に会いに行った持てない男の私。ところが部活途中と思った夕子がバイクにまたがっていた。冗談のつもりでとがめると、夕子は本気で怒った。丸子のはからい(?)で、夕子が丸子相手に私への不満を言うところを立ち聞きした。ところが丸子は、話の最後に「あんたは熱しやすく冷めやすい」と言うのが聞こえた。落胆しっ放しで仕事から帰宅したところに、丸子からの電話がかかって来た。再三かけて来たという丸子からの電話とは一体どんな内容なのか ? 持てない男の運命はどうなるのか ? さあ、読もう ! ! 例えば光文社の「少年」をあける。グラビアページをしばらく楽しんだあと、更にページをめくると、「鉄人28号」のカラーページが目に飛び込んで来る。これまたしばらく見つめる。そうすぐには本編には入らない。鮮やかなカラーで描かれた横山光輝先生のタイトルページに見入る。ようやく気が済んで、一ページ目をめくる。当時の月刊誌は、巻頭カラーページなどというケチなことはしない。巻頭からの人気漫画は、三つぐらい堂々とカラーで載せた。見開きごとに、オールカラーと二色刷りページとが交互する。しかも紙は上質でつやつやしている。のちに全盛となる週刊誌のように、ケント紙だらけではなかった。一ページ目の横の欄外に、縦書きでこうある。「雨の深夜、正太郎になぞの訪問者。さあ、読もう ! ! 」。こう書いてある言葉が私の「鉄人」好きの琴線(きんせん)に触れて、これだけでゾクゾクした。爾来(じらい)、未だに「さあ、読もう」の「読もう」が好きだ。私は漫画を「読書」した。「読もう」がそうさせてくれた。その横山光輝先生も、足腰を悪くして、お体が不自由で、ほぼ寝たきりのところへ、タバコの火の不始末がどうやら原因で、あっというまにベッドは炎に包まれ、全身に大やけどを負って、数ヶ月前に非業の最期を遂げて、お亡くなりになった。いや、「タバコの不始末」と書いたが、漫画家にタバコはつきもの。気持ちは「不始末」などとは書きたくない。漫画家のハードスケジュールは、有名漫画家の短命を見ればわかる。戦後漫画の発展と繁栄の先駆となり、その方向づけをはっきり示して、続々漫画界に台頭する後進たちに道をつけ、自らも数々の大ヒットを飛ばし続けた漫画の神様、手塚治虫氏。その手塚先生と共に雑誌「少年」の双璧をなした「鉄人28号」の横山光輝先生。早くから天才を発揮して頭角を表わした石森章太郎氏。藤子不二雄のペンネームで、のちに独立した藤子・F・不二雄氏。いずれのヒットメーカーのかたがたも短命に終わっている。私は現代漫画の氾濫にはほとんどそっぽを向いているが、今述べたパイオニア各先生がたは別だと断じている。昭和2,30年代がおおらかで良き時代だったように、各先生がたの描く漫画もまたおおらかな内容と、見やすく親しみやすいペンタッチに彩られていた。そんな漫画群に囲まれて育ったことを幸せに思っている。だが、ゆきて帰らぬ良き時代が終わると同じく、これら古き良き時代の漫画も、もはや再び私たちの目の前に新作としてその姿を現わすことはない。私が、平成に入って急速にはびこって来た歌手とも呼びたくない歌歌い共の、旋律になじめぬ、歌とも言いたくない忙しく時に超高音で音階だけ羅列(られつ)した歌にそっぽを向くのも、往年の漫画を惜しみ、現代漫画を嫌悪することと通ずる気持ちがあるからかも知れぬ。アーティストだそうな。 いつから単なる歌歌いは芸術家に昇格したのだ ! ? バカな。その昔、古賀メロディーその他を音階正しく、歌詞をハッキリ聞き取れるように歌って、「流行歌を楷書(かいしょ)で歌ういい男」と、最大級の賛辞を以て称えられた藤山一郎氏は、70代になっても、往時と変わらぬ声量とハリのある声で楽しませてくれた。映画「青い山脈」は反戦左翼思想の今井正が演出したへたでつまらぬ映画だったが、藤山一郎氏が歌った主題歌は名曲だ。この歌はワンコーラスごとに伴奏が変わって、これも聞く者をおおいに楽しませる。「丘を越えて」に至っては、一番の歌に入るまでのマンドリンの伴奏の長さでは恐らく日本一だろう。その伴奏がまた名曲だ。あらゆる娯楽が今はつまらぬ。青春といえば、普通は高校時代から大学時代がそう呼ぶにふさわしい年齢だろう。50,60になって、まだまだ青春なぞというお追従番組を見ると「バカめ、いい年して」とチャンネルをかえるかテレビそのものを消す。どうせじじいだ。その歯は入れ歯ではないのか。髪は染めてないか。古人は年寄りの冷や水と言ったではないか。気持ちを若々しく保ちたいのはわからぬでもないが、少なくもブラウン管にあるいは嬉々として自らその老醜(ろうしゅう)をさらすのだけはみっともないからよせ。茶の間の見物も見物だ。「元気なおじいさん、おばあさんを見て、わたしも元気をもらった」などと、歯の浮くことを言う。ならばお前さんがたも、老人老婆になったら、見習って、入れ歯で固め、髪を染めて、年に似合わぬ派手な色の洋服を着て、「わたしは若い」と言い張るか。「醜い西洋人の老婆」というコラムがある。見れば後姿は長い髪を垂らして、派手な洋服を着て、まるで若い娘だ。たまたま若い男が娘と勘違いして後ろから足早に迫って、いよいよひと声かけようとした刹那、追い越しざまに振り返ってちらと見たその顔はまぎれもなき老婆のそれだ。それでも若者は気をつかって、何もなかったかのように足早にその場を遠ざかり去る。老婆はいたたまれなくはないか。若者のせめてもの心遣いは仇(あだ)となったと老婆も気づいたのではないか。かりそめの若作りは裏目に出たと悟ったのではないか。かつての我が国の老人の如く、人は年そうおうに身なりに気をつけるべしというほどのコラムだったが、私は納得した。その私も、既に20代後半だった。ひょんなことからバイク教習を引き受けることとなった娘も、交際相手とも言えぬ程度の付き合いだった。娘もそう思っていたに違いないと、私は断じており、必ず軽はずみな言動せざるべしと己れを戒め、この縁をバイク教習のあいだだけと自らに言い聞かせていた。家庭教師宅から帰り、母から受話器を受け取ると、すぐ返事をした。ところが電話口の声は夕子だった。彼女の機転、いや、今は奸智(かんち)と呼びたい気分だった。「もしもし、あの、夕子です。村松先生ですか ? 」口調はあくまで穏やかだが、昼間のことが耳に残っていたので、無念とは思いつつも、覚悟した。だが母のいる前で、厳しい夕子の言葉を聞く気にはなれなかった。「ああ、丸子さん、さんざん電話させといてごめんなさい。ちょっと待ってて」とひとこと告げると、送話部分を手で押さえて、母に向こうへ行っててくれと頼んだ。母はやや不機嫌そうな顔でその場を離れた。「あ、もしもし。夕子さんだったんですね。何回も待たせてごめんなさい。で、用件は何ですか ? 」どうせ言うことは察しがついていた。返事を聞きたくはなかった。ようやく夕子の声が受話器に聞こえて来た。「あの、昼間はすみませんでした。わたし、そのことをお詫びしようと思って、気になって、失礼とは思ったのですけど、先ほどから何回か、お電話させていただきました」どうも良くわからない。穏やかな声でしかも詫びている。しかし、昼間の丸子との会話をハッキリ聞いてしまった以上、次に告げられる言葉はわかっていた。それでも私は精一杯、気にしていないふうを装うことにした。無駄な抵抗というやつかも知れない。「こっちこそ、ごめんなさい。せっかく夕子さんが私のバイクにまたがって、楽しんでいる時に、機嫌を損ねることを言ってしまって・・」夕子はまだ本題を切り出さずに、穏やかな口調で言った。「いえ悪いのはわたしです。村松先生、何もきつい言葉でわたしに言ったわけでもないのに、あんな態度とってしまって・・。わたし、本当は今度の日曜日も、バイクに乗らせてほしいんです。・・・もし、許してもらえれば・・。でも、あんな態度とってしまって、村松先生に嫌われてしまったんじゃないかと、気が気ではなかったんです・・」状況一転、好転に転じた瞬間に間違いなかった。だが余りの意外な言葉に、頭が混乱していた。どうやら喜んでいいようだが、それにしても、昼間丸子が言った「あんた、熱しやすく、冷めやすいから」という言葉が引っかかっていた。ようやく、今の夕子の言葉に、頭の整理がつき始めて来た。「村松先生に嫌われたのではないかと気が気ではなかった」と夕子は言った。飲み込みの悪い私は、二つながら相反する丸子の言葉とたった今の夕子の言葉とを理解することが出来なかった。だが、夕子は詫びの言葉と、再びバイクに乗りたいとの言葉を告げたくて、再三電話をかけて来たことは確かなようだ。矛盾する言葉の意味を問いただすのは、そのうちタイミングのいい時にでもまわそうと決めた。今話題にすると、丸子にも迷惑がかかる。彼女らの仲にもヒビが入ると思った。「じゃあ夕子さん、仲直りでいいですね。それで、今まで通り、今度の日曜もバイクの練習でいいんですね」と問うた。「はい、喜んで ! でも、本当にごめんなさい」あの昼間の凄い剣幕の夕子の一面を知ったから、気持ちはやや複雑だったが、今、猫をかぶっているような娘の態度にウソがないことも確かだ。私は次の練習予定などを簡単に知らせて、電話を切った。頭に二つの夕子の顔が浮かんだ。そして、どうやら自分が十(とお)も年下のこの娘にひかれ始めていることを感じた。だがむつかしいことだと思った。とにかく不安は解消したことだけを知って、安堵(あんど)した。