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カテゴリ:アンソロポロジー
その返答には「海外に出て知見を広めるのも結構だが、あなた方の見過ごしている、と言うより見ることを怠っている日本を発見する魅力に私はとり憑かれているのだ。残された貴重な時間は、広く浅く見るよりも深く見ることに使いたい、どうして他所見などできようか」といった気持が籠められていたように思う。129p「白洲正子と旅の楽しみ」青柳圭介 「旅」という言葉には、私個人は、どうしても「漂白」の意味を込めてしまう。 分け入つても分け入つても青い山 山頭火 「西行」とい著書のある白洲正子であれば、「旅」という言葉にどのようなニュアンスを込めているのか、今後読むすすめていけば分かってくるだろうが、すくなくとも、この「とんぼの本」シリーズの中での「旅」には、漂白という情緒はない。むしろ、骨董を求めるような旅であり、骨董「品」として「自宅」に持ち帰れない「美」を探しにいくような旅だ。自宅の庭を延長しているような、そんな旅だ。 この本の中には「楽しむ」旅が書いてある。これでは、ディカバリー・ジャパンの観光旅行ガイドであり、本来の白洲正子の持っている魅力を半減させてしまっているのではないだろうか。もし、彼女がもっと若くて、世界遺産をめぐる旅でもしていたら、「白洲正子と歩く地球」なんていう海外旅行ガイドブックがでていたかもしれない(笑)。 もちろん、そういう旅も、そういうガイドブックも一笑に付され、すべて否定されるべきものではないが、「旅」そのものには、もうすこし余韻を残しておきたい。別に「北の宿」だの、 「津軽海峡・冬景色」だの、「火の国へ」だのという阿久悠が書くような演歌の世界を白洲正子に求めているわけではない。 だが、私自身にとっての旅は、もちろん傷心の旅ばかりでもないし、いまだに地図なき旅であるが、一般に人生そのものが「旅」である、と表現されることがあるとすれば、その底辺には、ひとすじ「漂白」の意味合いがどうしても欲しい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.08.19 08:48:52
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