饒舌の闘いが交わされる第二幕。心の檻の鍵は。
【舞台の内容に触れますのでお読みになりたくない方はどうぞスキップなさって下さいね】
【双頭の鷲 第二幕】
嵐の夜が明け、暗殺者だったはずの詩人・スタニスラスは
エディットの代わりに、王妃の読書係に任命されていた。
取り巻く者たちも、当のスタニスラスも戸惑いを禁じえないが、
王妃は泰然と王家を弾劾する詩を朗読させ、拳銃の腕を試しながら、
詩人に城へ飛び込んできた本来の目的を遂げさせようとする。
死を覚悟して暗殺に臨んだ詩人は、王妃と言葉を交わす中で
その王者に相応しい品格と、愛を希求する脆さに惹かれ始める。
警視総監・フェーン伯爵に利用されていたことをも知った詩人は
本当の敵は誰であるかを悟り、フェリクス公爵を補佐として首都に入城し、
政治権力を手中にするように王妃を鼓舞するのだった・・・
舞台を拝見していて驚いたのが、王妃が豹変してしまうシーン。
モデルとなったエリザベートのように、宮廷のしきたり、
つまりは政治に関わることを避けて、放浪を続けていた王妃が、
詩人・スタニスラスの言葉を受けて、世捨て人の衣をかなぐり捨てて、
敢然と王者への扉を開け、フェリクス公爵に首都入城を宣言する。
目の前で夫に先立たれ、氷華のように自らを封印した妻が
思わぬ触媒を得て、一気に本性と情念を氷解させた勢いを
麗人は鮮やかに表現されていました。
この詩人の役割を端的に表現したのが次のセリフ。
伯爵
「妃殿下が詩人ごときものに興味をお持ち遊ばすのは
あまりよろしくありませんな。
やつらは、自分たちの無秩序を、社会の中に持ち込んで
社会の歯車を狂わしてしまうのです」(公演パンフレットより)
この言葉には、とてもデジャブな印象がありましたので
二年も前の日記を開いてみましたら、次のように。
☆ 黒蜥蜴観劇記より
「犯罪というものにはある資格がいるんです。いいですか。
犯人自身もしかとつかめないある資格が。」
「資格って?」
ここで明智小五郎の演説。
『薔薇の花束を男からもらい、そこに虫を発見したときの女の三様。』
第一の女 悲鳴と共に暖炉に花束を投げ込む。犯罪は犯さない。
無意識な残酷さで、自分と世間とを救う。
第二の女 冷静に虫をつまんで暖炉に投げ入れ、綺麗になった花束の香りを改めて嗅ぐ。
意識的な残酷さを発揮して薔薇の命と虫の命、世間の秩序と道徳とにくっきり段階をつける。
第三の女 優しさゆえに虫も殺したくない、花束も焼きたくないため、
花束をくれた男を暖炉に突き飛ばし、その顔を真っ黒に焼く。
自分の優しさに忠実なあまり、世間の秩序と道徳とを根こそぎひっくり返す。
三人の中では第三の女が一番残酷さが少ない。
けれど、彼女は犯罪者の資格を持っている。 (1956 三島由紀夫 黒蜥蜴)
「黒蜥蜴 観劇記・恋の罠と第三の女」
☆☆
第三の女といえば、こちらも。
「【TAKESHIS’】鑑賞」
詩人というモチーフを、自らも詩人たるコクトー自身も
コクトーに多大な影響を受けられたという三島由紀夫氏も
幾度もお使いのようですけれども、その定義はどうやら明智小五郎の言葉
「自分の優しさに忠実なあまり、世間の秩序と道徳とを根こそぎひっくり返す」に
集約されるのではないかなと思います。
「自分の優しさ」とは、芸術家の美意識のこと、
当然、黒く蠢く爬虫類を二の腕に抱く黒衣の婦人も
この詩人の系譜に入れても良いのでしょうね、などと思いながら
展開を追ううちに、舞台はますます「黒蜥蜴」との邂逅を促してくれたのです。
だんだんと絵解きのようにこれまで観賞した舞台・戯曲・音楽・著作など
あらゆるものが繋がってゆく面白さゆえに、聖なる怪物を追うのは止められないのですね☆
続きます。
「美輪明宏さんの舞台・映画」