幕が上がり、バスタブの海で鏡を持つマリーが登場。
【舞台の内容に触れますのでお読みになりたくない方はどうぞスキップなさって下さいね】
ミュシャの絵が施された装置や、アンティークの家具。そして
密室的空間をあらわす紗幕は、重厚な色のベルベット…ではなく、
パステルカラーのオーガンジーが舞台のトップ付近から長く
パレットに色を重ねるように何百も裾をひき、七色の蝶々が飛び交う舞台。
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マリー「鏡よ、鏡よ、鏡さん。
この世で一番の美人はだれかしら?」
下男「マリーさん、
この世で一番の美人は、あなたです」(「毛皮のマリー」寺山修司 1967年)
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「継母のお后は、白雪姫の成長した姿」などと数年前の日記に書いたことがあって。
白雪姫が花咲く不惑の男娼に羽化したのを無意識に覚えていたからでしょうか。
さて、花の色が徒にうつりつつある鏡の前に、紛れもなく春のときにある美少年・欣也が登場。
彼が手にしたガラスの器は、マリーに染められた蝶々入り。
舞台が作者の人生の縮図であるのと同じく、蝶の運命がのった手の平は完全な入れ子構造、
生殺与奪権さえもって母性に支配されてきた密室のひな形。
欣也の年齢設定を18にしてあるのも、早稲田大学入学のために
青森から上京してきた詩人の年齢と重なっていて。
勇躍、世界一周をするように飛翔できると思いきや、
母性のたなごころから決して離れることの出来ない無念さと
かえってその無念さがインスピレーションの源泉になっている、
止揚を目指すにふさわしい構図。
先回の鑑賞は、美輪さんと及川光博さん美しさを愉しむに留っていたようで
「男性にも母性がある」という演出意図も難解なままに観終えていた印象が強いのですけれども
関連書籍、年譜、番組、舞台などに触れた数年間を過ごした今回は、
もう少し頭も心も柔軟にクリアになって臨めるようになったかもしれません。
さて、初お目見え、欣也役の吉村卓也さんは見目麗しい中にも気骨を感じさせる方。
ヘドウィグばりの強烈な美少女・若松武史さんを向こうにまわしても一歩も引かず、
丁々発止で渡り合える上手さが、備わっておられました。
それは、マリーと対峙しても同じこと。
いったんは箱庭を後にする子供を、悠々と見送ってみせる親のまなざしに
不安が際立ってくるのは、すでに支配権を明け渡しているからでしょうか。
***
マリー「あの子はどこにいたって、
たとえ地球の向うの一番遠い星の上にいたって、
あたしが呼びさえすれば必ず帰ってくるのですよ。
あたしたちは、
母ひとり子ひとりなんですからね」(「毛皮のマリー」寺山修司 1967年)
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舞台版では、彼が戻ってくることを知っているにも関わらず
駆け去った後を目で追うマリーの寂寥の表情をみると
もしかしたら、籠のフタを開けられた蝶のように
二度と帰ることがないのではないかと思われるような
父性をも漂わせる強さをもった欣也になっていました。
そのために、夢破れて腕に戻ったはずの幼子が
その袖をさらに広く開き、懐深くに母を抱き返しているさまは
夫が妻を労わる姿も容易に想起できて。
男娼と養子に置き換えられた親子関係が、ひとつの破綻をもって
詩人の母の本来、望んでいた姿として顕現されるラストシーン、
寺山さんのお母さまが美輪さんに心開いておられたことにも
肯けるように思えたのでした。
続きます。
「美輪明宏さんの舞台&映画の日記」