柳田國男と折口信夫
日本民俗学の二大教祖ともいうべき柳田國男と折口信夫について書いてみる。むろん全くの素人の意見であり論というものではない。柳田國男は1875年(明治8)生まれ。兵庫県神崎郡の医家の六男。一方折口信夫は1887年(明治20年)生まれ。大阪府西成郡の生薬商の四男。12歳の年齢差がある。ここが絶妙の差である。いずれにしても文学的素養もあり、歴史的造詣も深い二人が農政官と大学教授という背景をもちながら全く新しい分野の研究に分け入って相互に研鑽してきたことは、日本にとって幸いであった。谷川健一氏は「ゲーテが出ればシラーが出る。パスカルに対してデカルトがいる」という比喩で両巨頭の出現を歴史的必然であると言い切る。まことに二人の活動の先にあの日露戦争や幸徳秋水の事件が起こる。明治の国是がぐらつく時期である。当時のインテリがその模索の果てに「常民」と言われる名もなき民衆がおり、生まれたのが民俗学である。1910年(明治43)新渡戸稲造宅で「郷土研究会」創立。柳田参加す。1915年(大正4)この頃折口信夫柳田を訪ね郷土研究会に出席するようになる。1918年(大正8)柳田貴族院書記官長を辞任。官吏生活に終止符を打つ。「白鷺はをのがしろきをたのむらむ人を見る目のにくらしげなる」と歌う。官吏の思考批判といえよう。一方折口は1910年24歳の時国学院大学国文科卒業。翌年大阪府立今宮中学校の嘱託教員になる。二人のキャリアの差は歴然たるものがある。後年折口は柳田の組織力や情報把握力の力量がけた違いなのはエリート官僚の地位によるのであろうと述懐している。またそこに柳田の高圧的な、官僚的な姿勢があったともいえよう。確かに柳田は青年期の詩人としての才能を封殺し農政官僚の道を選択した。柳田家の婿養子となり国家選良のコースを邁進する。折口の地味な学究生活とは大違いである。だが二人とも詩人、歌人として天才的力量を示し、日露戦争以降の日本の都市化、自然破壊、伝統文化の消滅に対し危機感を共にしていたのである。伝承や祭り、古文書の分析、沖縄の調査など共同研究に行動を共にした。1953年(昭和28)折口信夫9月3日胃癌で死去。67歳であった。1962年(昭和37)柳田國男8月8日心臓衰弱で死去。88歳であった。この両巨人ののち彼らをしのぐ研究者はまだ出ていない。高度経済成長を経験した私たちはもはや民俗の原風景を喪いつつある。資料研究やデータ分析でお茶をにごしているというのが現実である。それは国家目標を喪い、研究という名の資産潰しにうつつを抜かしている戦後世代の自慰に他ならない。