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カテゴリ:鹿児島の歴史
上の写真は鹿児島市冷水町にある興国寺墓地にある「嶋津〇前・・・」と書かれた石標である。ただ現在は墓地の区画の石として使われているように見える。 先日、行われた「2018年 かんまち本でさるく 上町歴史散策」で興国寺墓地に行ったときガイドさんから島津光久(島津家第19代当主・薩摩藩第2代藩主)の母親がカタリナ夫人(クリスチャン)の娘・桂安夫人であることから興国寺墓地の関連性を示すものではないかとの話が振られた。 上にカタリナ夫人関係の系図を自己流で書いてみた。 カタリナ夫人がクリスチャンで・・・という話が出たとき思い出したのは種子島に演奏旅行に行ったときに訪ねた種子島家の墓地にそのような墓があったということだった。 帰って調べると2014年10月26日、27日の二日間、種子島で演奏会のため種子島に渡っていた。 (その時の様子は拙ブログに2014年10月28日~11月7日に書いてある)初日の昼食時間に訪ねたのが下の写真にある種子島家墓地。(以下3枚の写真は2014年10月26日撮影)会場の西之表市民会館のすぐ近くだった。 そこで島津家、カタリナ夫人、興国寺墓地、種子島家墓地などの関連について改めて調べてみた。 カタリナ夫人(1575~1649年)の父は皆吉続能(小西行長の家臣)母は不明。カタリナは最初の夫・小西行長(キリシタン大名)? との間に娘あり、後に娘は喜入忠政の後室となる。肥後国にて島津忠清との間に娘誕生、後に娘は島津家久の後室となる。 慶長14年(1609)夫・忠清と肥後から鹿児島へ。娘が家久の後室となり、虎寿丸(後の島津光久)を生んだことから地位も向上した。夫・忠清は死後、興国寺に葬られカタリナ夫人は竪野(現在の鹿児島市冷水町)に移り住んだと言われる。出家して「永俊尼」と号した。 夫・忠清の墓は興国寺墓地にあると言う。一番上の写真にある文字は「島津」ではなく「嶋津」となっているがこれが忠清の墓の入口門柱だったのか、また「嶋津〇前・・・」の〇の部分文字は「脩」でもなく「備」でもないようだが、「備」であれば、忠清の官位 備前守と合致する。ご存知の方があれば、ご教示願いたい。 その後、寛永10年(1633)にキリシタンであることが発覚し捕らえられ寛永12年(1635)に種子島に蟄居閉門となり、人との交流を絶たれ種子島で病死した。 いずれにしても数奇な運命を辿った女性だったと思う。 (参考資料として「かんまち本」その二、ネット「島津忠清」ウィキペディアなどを参照した) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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6月18日の大阪北部地震、
、朝食を終えて、洗濯物を干しに庭に出ようとした時に ドーンと突き上げるような地震に見舞われました。 幸いにもこちら奈良の地震は数秒で終わり、ちょっと「ひや!」とした程度で、 何事もなく終わってしまいました。 後でニュースで確認したところ、奈良は震度4だったようです。 この大阪北部地震をきっかけに、改めて「奈良の震災史」をネット調べしてみました。 <奈良県の地震災害~奈良地方気象台> http://www.jma-net.go.jp/nara/jisin/saigai_jisin.htm 上記サイト及びウィキペディアの「地震の年表(日本)」によりますと、有史以来、奈良で起こった地震で死者が出たのは、 (1)1707年の「宝永大地震」(南海トラフを震源とする史上最大級の地震):奈良県の死者63名、 (2)1854年の伊賀上野地震(奈良県の隣の三重県西部をい震源とするM7,3の直下型地震)の死者約500人、 の2つの地震だけだったようです(1995年の「阪神・淡路大地震」でも奈良県は死者ゼロでした) 23年前の阪神淡路大震災の時も奈良は震度4、 リュウちゃんが今までに体験した最高震度なのです。 やはり地震は怖いです。 願わくはこれ以上の震度を体験しないまま死にたいと思っています。 (2018.06.20 09:55:59)
kopanda06さんへ
おはようございますコメント有り難うございました。 二条城は国宝クラスで美術館のようでもあります 見所が多く広いです 江戸時代を感じさせます (2018.06.20 10:39:40)
こんにちは、クマタツさん(*^-^*)
カタリナ夫人の事、すごく詳しく調べていらっしゃいますね。 手書きの図解、ありがとうございます~ カタリナ夫人は、その夫(2番目の夫?)だったとかいう島津忠清と、加藤清正、島津家との暗闘関係を何かで読んだ記憶があるんですが、ちょっと、うろ覚えなところがあります(;´・ω・) (2018.06.20 11:36:11)
こんばんは~♪
カタリナ夫人(??) 浅学なもので、始めてお聞きした名前です。 数奇な一生を送られたんですね~!? 歴史って本当に奥深いですね! 後世に残ってる歴史はホンの一握りなのかも。 歴史のひだに埋もれてしまった事実がどれだけあることやら??? 手書きの系図、素晴らしい~ヽ(^∇^)ノ 歴史モノの本を読んでる途中で「あれ?この人はどこの誰だっけ?」 となることの多い私・・・系図を書けば理解が深まりやすいだろうから、 さっそく私も試してみようと思います(^0-) (2018.06.20 17:24:49)
カタリナ夫人~初めて知りました。興味深いですね。
(2018.06.20 22:43:28)
こんばんは。何時もありがとうございます。こちらもさるくと言う言葉を使いますね。歴史的な事が詳しいのですね。先日も西郷どんで種子島が出たのではないでしょうか?素敵な島でした。歴史をたどると色々そうだったのかとうなずくことが有り、ドキドキされるのでしょうね。
(2018.06.20 23:06:50)
お久しぶりです(・∀・)いかがお過ごしですか?
気温の変化が激しいので風邪をひかないようにしてくださいね☆彡 ちなみにブログは「一粒 ダイヤモンド」を紹介しました! お暇でしたらまたちらっっと見てくださいね☆彡 今日も1日笑顔でがんばりましょう(・∀・)イイネ!! ブランド好き悪女でした~♪ (2018.06.21 11:47:45)
この時代、キリシタンという事で配流ということで、苦労をし、また結婚ということでも、身分のある人は政治的な判断で色んなところに嫁いでいかないといけなかったのでしょうね。
キリスト教徒だった人として、再婚とかどういう思いで嫁がれたのかなと思います。 (2018.06.21 17:26:42)
★**何時もComment頂き有り難う御座います**★
カタリナ夫人の件 初めて知りました 知識不足だな~我ながら 情けない(泣き) 今日は夏至 久方振り 天理のトレイルセンターへ また長岳寺 参拝。山の辺の道歩き 良い空気を吸って来ました、新緑抜群ですね! (2018.06.21 20:28:15)
記事を拝見しました。興味深い話題提供有難うございました。鹿児島市在住ですので、私も件の石標を拝みたいのですが、広い墓地で石標の近くに目印はありませんか?それともガイドさんに教えを乞うべきでしょうか。ガイドさんって鹿児島探検の会のメンバーなのでしょうか。質問ばかりで済みません。
(2018.07.25 12:44:59)
メタブさんへ
コメントありがとうございます。 この興国寺墓地の探訪は「上町維新まちづくりプロジェクト」の主催でした。 ホームページやフェイスブックもあるようです。検索してみてください。 ガイドは臼杵俊彦さんが主だったと思います。連絡なさってみてください。 ご存知のように興国寺墓地は広いですので、私も目印など覚えていません。 でも行けばわかると思います。もし「上町維新まちづくりプロジェクト」での案内が叶わぬ場合には、私もまだ調べたいことがありますので、案内いたしますよ。連絡ください。 (2018.07.25 15:25:09)
クマタツ1847さんへ
おかげさまで翌日には上町維新まちづくりプロジェクトの皆様とやり取りができました。皆さん、とても迅速にそして親切丁寧に対応していただき恐縮しました。とりあえず最初は単独で興国寺墓地を探索し再度皆さんに連絡を取ることにしました。 なお、備前の備について私見ですが、おそらく備の異字体の一つである俻が石に彫られているのであろうと...すると、島津備前であることは間違いなさそうです。クタマツさんの写真では備前の下には忠も彫られているように見えなくもありません。もっとも、私は理系人間で歴史の専門家ではありませんので眉唾程度に考えてください。もう一つの疑問は、件の石が、クタマツさんが慎重に石標と記したように墓石ではなかろうということです。ではその石は何か...楽しみです。先ずは、ご報告と御礼です。有難うございました。 (2018.07.29 16:08:36)
メタブさんへ
お礼の言葉をいただきながら、メタブさんのコメントへの書き込みに気づかず大変失礼をいたしました。 書き込みを見ながら少しでもお役に立てたのであれば、良かったです。 私もまた涼しくなったら行って再度、石標らしきものの文字を確かめてみたいと思っています。 先ほど「上町まちづくり・・・」の方と会ってそのような話があったということを墓地に一緒に行った友人からのメールで知りました。 (2018.08.06 22:14:11) |