そして、最後に到達したのは、汐入の酒場でした。この酒場について語るには、いつもの無駄な饒舌など無用であります。この酒場ともったいぶる辺りがこれまた無用極まりないのでありますが、そう書く一方でいざ書き進めようとしてもぼくの貧困な語彙をいくら弄してみたところで、実体からはむしろ遠ざかるのではなかろうかという不安さえあります。
「大衆酒場 興津屋」は、そんなぼくの困難など知らぬように今晩も変わりなく営業しているものと思いますが、そんな気持ちは実のところは直感などではなく悲願がもたらす錯覚に過ぎぬような気がします。昭和2年に開店し、戦後の昭和23年に立て替えたそうです。そんな巷間に流布された情報も女将さんの口から直接に伺うとグンと重みが増そうものです。女将さんによると、昨年店を畳むことを考えられたそうです。お隣りが建て替えでアスベストの粉じんが吹き込むので大変困ったとのこと。それでもまけじと建設業者や役所に激しく掛け合ったそうです。このことがあって、表通り側を入口としたとのこと。最初はぶっきらぼうと感じられた、女将さんの言葉に実直さの底流をなす優しさを感じ取ったのは、英語表記されたホッピーの酔いが回ったからだろうか。2つある入口について尋ねてみると、もともとは、間口の狭い脇のこちら側が入口だったそうな。また、女性用の便所がないこと、そして住居部分を見せてはまかりならぬとの理由で営業許可を認めないとのお達しを受け、常連の役所の偉いさんに直訴してなんとか認められたとのこと。だから今でも女性客には、男性用便所しかありませんよとのこと。一時、住居用のトイレを貸し出したところ、アメリカ人は靴を脱ぐことを教えたらちゃんと従ってくれたのに、日本の若い女性は靴のまま上り込み、揚句はいたずら書きまでやらかして、貸し出すのをやめたとのこと。嘆かわしいことです。役所にははじめに女性用便所がないことを断ることと近所のコンビニを利用するよう促していることで納得してもらったとか。また、似つかわしくない巨大なテレビが座敷に鎮座しているのは住居部分の目隠しのためだとか。もともとは宴会場として使用していたようです。こんなにゆっくりと女将さんの口からこの素晴らしい酒場の話を聞けたことが、今では夢なように曖昧模糊としているのです。次に横須賀を訪れる時もまたゆっくりと酔っ払いのお相手をしてもらえるだろうか。それを思うと今すぐ駆け付けたい気持ちが湧き上がるのを押さえ込めぬようなもどかしさを酒で誤魔化すしかないのでした。最後にひとつだけ実用的な情報を。現在は午後7時30分までの営業となっておりますのでお出掛けの方はくれぐれもご注意を。それから店内撮影もお断りされているので、その素晴らしさをお届けできないのは残念ですが、実地にご覧いただくかネットには内観写真も随分出回っているのでそちらをご覧ください。