たまにはぼくのような者だって気取ってみたくなることがあるのです。そういう時は大概が迷いとか苦悩とかいうネガティブな因子が根底にはあるのですが、時には意味もなく気取ってみたい、そんな余波があるものだし、それさえないというのは壮年男子としては問題があるのではなかろうか。というのが前夜の結論だったらしいが、なんだかよく分からぬ。少なくともバーで呑むという所業はカッコいい事だということらしい。この場合、世間様がどう思おうかという事など委細構わぬのであります。当の本人の思惑が全てなのであります。バーでカッコつけている時に、仮に美女がすり寄ってくるなどという事態が生じようともけしてがっついてはならぬのです。そんな時にはグラスに残るバーボンなりの残りをグイと呑み干し、直ぐ様にバーテンダーにお替りの合図を送るべきなのだ。女になど脇目も振らぬという厳然たる意志を貫くしかないのです。さのストイックな姿勢に熱い眼差しを向けるようなら、お替りもグイと空けて席を立つべきであります。勿論、その際にはさり気なさを装い視線をちらり投げ掛ければ良いのです。気前よく彼女の分の支払いを済ませれば首尾は万端整っている。しかしそう上手くはいかぬのが現実です。だからこそ孤独な自分に酔うというのがバーでの一般的な振る舞いなのであります。ぼくなんぞが男を代表して語るのはどうも不遜な気がするけれど、そうした孤独な男の大部分は助平な事を考えているはずです。居酒屋で独り呑む男で助平な事を思う客は半数に及ばぬと思うが、バーだとその八割は助平な夢想に耽っているはずです。つまり、バーとは男が独り誰も見てなどいないけれどカッコつけながら助平な事を考えるという実に不健全でファンタジックな空間なはずなのです。
なのに、市ヶ谷などという不粋な土地柄で呑むということになるとそうもいかぬのです。靖国通りの退屈な雑居ビルを奥に進むと「BAR 9DAN SLEUTH(バー・クダンスルース)」という思いがけずオーセンティックな割といい感じの空間が広がっていたのです。それにしてもこれは少しばかりキャパシティを取り過ぎではなかろうか。この町は散策に値するほどの愛想もないし、かといって閑静な住みたい町と呼ばれることもない、まあ無機質で退屈な町だからこの辺で勤務する連中は恐らくは夜になると町を移るのだろうと思う。だからここにこんな広い店は贅沢に過ぎるのではないか。まあ、贅沢は嫌いではないが当然他力に本願することになります。などと悠長な事を述べるのは、前段の男としてのバーでの振る舞いに完全に背く所業を犯したからなのであります。そう、仕事関係のおぢさんたちとグループで呑むということになったのです。しかも場所はバーなのだから己の流儀はどこへいってしまったのであろうか。幸いにも写真にそのオヤジたちの姿は認められぬから、何もかも無かったことにしてしまうという方策も取りうるわけですが、根が正直なぼくとしてはそれは避けたい。みっともない所業を為してしまったけれど、それを繕ってみせるのは潔くないのではないか、とここに来てまたもやカッコつけてみせるけれどやはりちっともカッコよくはないのでした。さて、仮にここで独り訪れたとしたらどうだろう、と夢想してみる。きっとカウンターに控えるバーテンダーなど気にも止めず、ひたすらにお二人のキレイな娘さんをチラ見してしまうことだろう。チラ見がバレぬと思うのは当の本人だけなのは知っているけれど、きっとそうしてしまうだろう。カッコつけの道はかくも険しいのであります。