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カテゴリ:まんが・小説・テレビなど
前回の話とは矛盾しそうですが、マンガを読む際に単行本で読むのと雑誌で読むのとではそれによって受ける印象もそうだけれど、その鑑賞に際しての心構えもまったく違ったものであるはずです。まずは分かり易い差異といえばその紙面のサイズの大小にあります。概して雑誌では雑に見えたような絵がコミックスサイズ、さらには文庫サイズに縮小されればされるほど、丁寧できれいに思えるということです。これは実際には単なるサイズの問題ではなくて、ほとんどの場合、単行本化される際に修正を加えるらしいから実際に改良されているのだろうと思うのです。でもそれよりも雑誌で定期的に読む場合は、その物語があとどの程度続くのか分からないのに対して、単行本化されていればまだ完結していない場合であっても少なくともその巻末は物語が継続することはわかるし、目次で最終話が含まれているか含まれていないかも察しが付けられる。つまりは、作者の意図に基づくものなのか不評のための打ち切りかはともかくとして、物語の結末が予期できるかできぬかの緊張感の有無こそがミソなのだと思うのです。こればかりは映画は持ちえぬ要素であるし、戦略的にうまくやれたとすれば面白いかもなんて思うのですが、とっくに試みられてるんだろうなあ。
『天崩れ落つる日』(集英社, 1997) 「わたしは快になりたい」、「奇妙なレストラン」、「辛口怪談」、「天崩れ落つる日」、「毒を食らわば」 『栞と紙魚子と青い馬』(朝日ソノラマ, 1998) 「青い馬」 『栞と紙魚子の生首事件』(朝日ソノラマ, 1996) 「生首事件」、「ためらい坂」、「殺人者の蔵書印」 諸星氏は、足立区千住の生まれなんだそうです。直接にどこがどうと指摘するだけの準備はありませんが、日本を舞台にした、特に氏が愛着を持って描き継いでいると思われる栞と紙魚子シリーズなんかには、どこかしら地方都市ではありえないけれど、都内であってもあか抜けない感じが足立区っぽいかなあなんて思ったりしていたのでした。マンガ家には自身の生い立ちや生活なんかの影響を引き摺って知らず知らずに作品に反映されるタイプとまったく自身の境遇などとは無縁に自由に想像を広げるタイプがいるみたいで―大雑把な分類だなあ―、諸星氏は後者だろうという印象に反して実は前者ではないかと近頃感じているのでありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020/12/31 08:30:06 AM
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