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カテゴリ:まんが・小説・テレビなど
ウィキペディアに「大友のコマ割りなどに大友が敬愛する黒澤明やサム・ペキンパーの影響が強い」とあります。はじめはふうん,なるほどねえと読み飛ばしてしまったのですが,日を追うごとに気になりだしたので少し検証めいたことをしてみたいと思い立ちました。順番はひっくり返りますが、まずはペキンパーの演出から検討してみます。映画批評家の蓮實重彦氏がかつて『ワイルドバンチ』のスローモーションを引き合いに「ペキンパーは無駄な描写を重ねて、だらしなさを繰り返していくことで何かが出てくる人」であり,「描写の経済学というものがもはや機能しないところに立っている」と語ったことがあります。ぼくはこの言葉には大いに賛同しているわけですが、では大友氏のマンガに描写の経済学の機能不全が見られるかというとけしてそんなことはないように思うのです。氏のコマ割りというか連なりには無駄なつまりは経済性を欠いた要素などなさそうに思えます。逆に言えば、一つには映画というものがいざ撮れつもりになれば誰だって撮れてしまうという側面を孕んでいるのに対して、マンガというメディアはたった一つのコマを描くにも相応の労力を要求されるものだし、それが執拗なまでの描き込みを武器とした大友氏であったとすればその労力は甚大なものであるはずですし、そういう意味ではマンガそのものが不経済なメディアと言えるのかもしれません。
『さよならにっぽん/大友克洋傑作集2』(双葉社, 1982)(「East of The Sun, West of The Moon」、「聖者が街にやって来る」) 『ショート・ピース/大友克洋傑作集3』(双葉社, 1986)(「School-boy on goodtime」、「WHISKY-GO-GO」) 『気分はもう戦争』(原作:矢作俊彦)双葉社, 1982 続いて大友氏への黒澤明の影響をみてみたい。ノエル・バーチは『一番美しく』を例に挙げて黒澤のエンプティー・ショット―人物が不在の風景のみのショット―が、心理主義の面からも説話内部の描写として機能しているといったことを語っています(一方で、小津安二郎のエンプティーショットは説話外の描写となる)。この点では大友氏もまたエンプティ・コマを説話内部に還元できるような用い方をしていると思われます。なるほどねえ。でもむしろ頻繁なパースというかアングルに黒澤作品のイメージが見て取れる気もしてくるのでありまして、『蜘蛛巣城』だったり『野良犬』なんかのショットが確かにコマに反映しているなあなんて思えてきたりするのです。でも蓮實氏の言葉を「黒澤は無駄な描写を重ねる素質はあったのに、だらしなさを嫌悪したことで何かを出し損ねた人」であり,「描写の経済学というものが機能不全となった」と言えるかもしれません。って、ハスミストの方に激しく叱責されそうなので、この文章への批判的なコメントは予め固く辞することにさせていただきます。ところで氏が麻疹のような一過性のブームとなっていたアメリカンニューシネマの影響下で作品を描き始めたらしいといったことを前回書いた気がしますが、実際執筆されたマンガにはそれらの映画が含んでいた叙情的な演出は気迫であり、実は似て非なるもののようだと思い直したので、最後に補足しておきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2021/01/05 08:30:04 AM
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