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カテゴリ:東北地方
年老いた両親が暮らしているということもあって、定期的に訪れている(って就職してからしばらく経ってからのことで、コロナもあってここ数年はご無沙汰していましたが)仙台でありますが、その度毎に魅力が減じていくのを感じていました。親元を離れてからすでに一緒に暮らした期間よりずっと長い時が経過してしまったにもかかわらず両親と会話を交わしているとこうした時間が瞬く間に埋まってしまうように感じられるから、あまり認めたくはないけれど親子の絆っていうのは案外強いもののように思えるのです。というかせいぜい学生時代頃までに付き合いのあった人たちというのは久し振りに顔を合わせても、関係が途絶えてからの空白の期間などなかったかのように一挙に取り戻せるような感覚に見舞われるのです。それなりの時を経ているという常識的な感慨はあっても、すぐさま当時の関係性が再構築されるようなのです。逆にその空白期間に知り合った人々というのは再会してもある程度の懐かしさはあってもどこかしら余所余所しさは伴うもののようです。ある年齢以降になると、記憶への関係性の刻まれ方が浅くなるからなのか、それとも互いに社会人としての距離感を測りつつ付き合うしかないからなのか、単にかつてのような深い関係性を構築し得なかったからなのか、どうにもはっきりしないけれど、両親と合うと今でも自分が彼らの子供であるのだなあという事実を認め事になるのでした。老いる両親と同様に町も変化するものですが、とにかく若返ることのない人間と異なり、町は老いと若返りのいずれかに向かうもののようです。ぼくの暮らしてきた町の多くは、終焉に向かって猛然と突き進むことが多い中で仙台は緩やかに発展を遂げているように思えます。それがぼくには不自然に感じられてどうにも居心地の悪さに繋がるようです。でも仙台には何軒かの変わらない酒場が存在しています。その存在がぼくを仙台という町に辛うじて繋ぎ止めてくれているのではないかなあ。
昭和5年開店の「明眸」は、そんな一軒となります。もう10数年以上前に初めてここを訪れたのですが、その時、仙台を訪れた理由ははっきりしないけれどこの酒場の独特なムードにはすっかり参ってしまったことを今でも瞼に思い描くことができます。その後、少なくとも5回はその暖簾をくぐろうと店の前まで来ていますが、結局は入れず終いでした。大概の場合、年末間近であったことがその理由であることは明らかでありますが、恐らくその年の営業を終えていることは予想できてはいたにも関わらず、訪れずにはいられなかったのです。ここはもつ焼き屋でありながら、外観がすでに特異なのです。とてももつ焼き屋とは思えぬ一見客を寄せ付けぬような硬派な雰囲気で初めてこの扉を開けた際にはとても緊張したことを覚えています。それでもここにも変化が見られ、看板がすっかり明るく新品になってしまっています。それはともあれいかにも酒場と呼ぶのが相応しい雰囲気は少しも変わっていません。これはこれでなかなかに凛々しくてカッコいいですけど。店内に入ると、おやおや何だかちょっと明るい気がするなあ。ぼくの印象ではかなり照明が抑えめで抑えめというよりは隣席の客の顔すら定かに確認できない程度に暗かったはずです。カウンター内の大きなテレビ受像機もなかったと思うんだけどなあ。それでも席の家具類だったりその配置は以前のまんまです。洋風な印象の内観は今思えば焼肉店に近いような気もします。女将さんは以前よりもずっとお若く思えるのだけれど、本当にこの方が以前の方と同じであるかどうにも判断しかねるのです。当時と人が変わったと言われる方がぼくには得心し易いのですがどうなんだろう。ゆっくりとお話を伺いたいところでしたが、先客のぼくより年少と思われる方とのお喋りが続き会話を切り出す暇がありませんでした。まあいいさ、また次仙台を訪れた際に立ち寄ればいいまでのこと。それまではきっと今のままで営業しているはずだろうと、何ら根拠のない確信をもって老いた両親のもとに急ぐのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023/10/02 08:30:09 AM
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