4475488 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

殿上人日記

殿上人日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
全て | カテゴリ未分類 | 懸賞 | 東京の旅 | 行事、地域 | 家族 | 滋賀、奈良の旅 | グルメ | 四季の移ろい | スポーツ | 馬籠より | 韓国旅行 | 中津川より | 恵那より | 美濃の旅 | 愛知、三重の旅 | 長野、山梨の旅 | 静岡の旅 | 京都の旅 | 大阪、兵庫、岡山の旅 | ヒューマン | 旅のいろいろ | 喫茶 | 菓子 | パソコン、電化品、車 | ヨーロッパ、ハワイ旅行 | テレビ、映画、音楽 | 歴史、伝統 | 買い物、主婦業 | 芸術、文化 | 日々の暮らし | ニュース、時事 | ペット、動物 | 花、植物 | 飛騨の旅 | 自然 | 子ども | 神奈川の旅 | 温泉 | 名古屋より | ブログ、リンクス、ネット | 中日ドラゴンズ | 木曽より | 夕焼け | 食べ物いろいろ | 行楽、遊び
2019年03月06日
XML
テーマ:海外旅行(7024)
カテゴリ:旅のいろいろ


​今、BS12トゥエルビで夕方に放映​
している「麗王別姫~花散る永遠の愛」を
見ているが玄宗皇帝と楊貴妃の唐の時代
蘇州にも近い呉興太守の娘の沈珍珠が、
幼い頃に太湖で溺れ、助けてくれた少年
(広平王・李俶)を思いを寄せつつも




皆殺しにされた家族の仇を探すという
歴史ドラマで、安禄山や楊国忠なども
暗躍して・・・韓国夫人や皇太子妃など
女のドロドロも見どころだ。その作中で
沈珍珠の詩の師匠が、李白だったりする
のだが、彼が蘇州に来訪した際の詩は




「蘇台覧古」李白
旧苑荒台 楊柳新たなり
菱歌清唱 春に勝へず
只今惟 西江の月のみ有って
曾て照らす 呉王宮裏の人




呉王の宮殿のあった姑蘇台は古びた
庭園となり、荒れ果ててしまったが
楊柳だけが新しい芽をふいている。
ひしの実を採る乙女の歌声を聴けば
やるせない気持にもなる




今となれば月は西江の水面を照らして
いるだけであるが、かつては呉王の美女
(西施)の姿を照らしていただろうに
そんな李白は、遣唐使として渡海しながら
日本に戻ることがなかった阿倍仲麻呂と
仲が良かったそうだ




仲麻呂は官吏登用試験である科挙に応じ
最難関の進士に及第したとされ、中国名は
晁卿(晁卿衡)という。年老いて仲麻呂は
日本への帰国を許されるが、船が難破をし
安南に流されて、翌年に長安に戻るのだが
李白は、仲麻呂が亡くなったと誤報を受け
それを嘆いた




「晁卿衡を哭す」 李白
日本の晁卿帝都を辭し
征帆一片蓬壺を繞る
明月歸らず碧海に沈み
白雲愁色蒼梧に滿つ




日本の晁卿は長安を去って、船の帆を
はためかせ日本へと向かった。しかし
名月のように聡明な晁卿は、碧い海に
沈んで、白雲が憂いを帯び蒼梧の海を
覆ってしまった




日本へ帰る事が叶わなかった仲麻呂を
阿部寛が演じたのが、夢枕獏原作の映画
「空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎」で
物語は時系列が二つあって、仲麻呂や
楊貴妃の部分と、後世の空海と白楽天の
謎解きの部分だ



李白701年~762年10月22日
阿倍仲麻呂698年~770年(唐は717年~)
楊貴妃 719年6月22日~756年7月15日
杜甫 712年~770年(後で出てきます)
白楽天(白居易)772年~846年
空海774年~835年(唐は804年から2年)




白居易が、蘇州の長官をしていた時に
蘇州城と虎丘をつなぐ山塘河を作ったと
前回の日記にも紹介をしたけど、彼は
詩人でもあり白楽天として有名であり
映画では、空海とコンビを組んでいた
イケメンだ




「小舫」 白楽天(蘇州にて)
小さき舫一艘 新たに造り了り
軽く梁柱を装いて 庳く篷を安んず
深き坊 静かなる岸 遊應に遍く
浅き水 低き橋 去りて尽く通ず




黄なる柳の影は 棹に随う 月を籠め
白き蘋の香りは 頭を打つ 風を起こす
慢く牽き櫻桃の傍らに 泊まらんと欲するが
借問す誰が家ぞ 花最も紅なる




小さな舟を一艘新しく造った。柱を
たてた。屋根を低く葺いたものだが
街の奥や静かな岸にだって何処へでも
行く事が出来る。浅い水の上も低い
橋の下にも何処だって通れる




黄色く芽吹いた柳の影、棹にからまる
ようにして月が映って、白い浮草の香りが
頬を打ち、風の中でただよう。ゆっくりと
舟を牽いで、桜桃の花の下に行きたいの
だが、どの家の花が最も紅く美しいのか
教えてほしいものだ




このように風流人にも愛された蘇州には
お金持ちが贅をつくした邸宅を建てて
それらは「蘇州古典園林」と呼ばれて
世界遺産にも登録をされている。いつもの
ようにウィキペディアによると




>蘇州古典園林の庭園の多くは明や清の
>時代に建設された。これらの多くは
>地元の名士により作られたもので、
>公共事業としてではなく、個人の趣味で
>置かれたもので、皇帝所有の庭園で
>ある皇家園林に対して私家園林という




>庭園は豊かな水を利用し、池を配置した
>素朴な美しさを特徴とする。蘇州以外の
>江南の地にある名園(例えば上海の豫園)を
>含めた江南私家園林が総称として中国
>国内では一般的である。蘇州古典園林の
>うち、拙政園と留園は中国四大名園の
>二つに数えられる




今回、出かけたのは「藕園(グエン)」で
清代の光緒年間(1875年~1909年)に
江蘇・安徽・江西省の総督であり蔵書家
だった沈秉成という高級役人が退官後に
夫人とともに蘇州に隠居をする事となり
この庭園を買い取ったものである




藕園園東部の旧跡は、清の雍正年間の保寧府
知事の陸錦が造営した「渉園」で、光緒初年
湖州の沈秉成が、渉園の旧跡を買い取って
画家の顧芸らを招聘し、設計をさせたもので
山を主とし、池を従とし、亭、台、楼が池の
周りに建てられている




配置が独特な庭園で、邸宅が中央にあり
東西に分けられて、各家屋の間は楼で
繋がっている。西花園は書斎の「織簾
老屋」を中心にして前後二つの庭があり
前庭には太湖石の築山があり、後庭には
太湖石の花壇がある




なお、藕園の藕(ぐぅ)はレンコンの
ことで、その発音が配偶者の偶と同じ
ことから、夫婦がここで仲良く余生を
送るという意味を込めているだそうだ




李白、白楽天と紹介したけど、ここは
やっぱり杜甫も紹介せねば。幼少の頃
から詩文の才能があり、李白と並ぶ
中国文学史上最高の詩人で、李白の
「詩仙」に対して「詩聖」と呼ばれる




李白と杜甫は互いに認め合う仲で
あったそうだ。杜甫の「国破れて
山河在り」は、多くの人が知って
いると思う。かの松尾芭蕉も杜甫
から思想的、文学的な影響を強く
受けて「春望」を引用をしたのだ




「春望」 杜甫

国破れて山河在り 城春にして
草木深し 時に感じては花にも
涙を濺ぎ 別れを恨んでは
鳥にも心を驚かす 烽火三月に連なり
家書万金に抵る 白頭掻けば
更に短く 渾べて簪に
勝へざらんと欲す




「奥の細道」より 松尾芭蕉
さても義臣すぐってこの城にこもり
功名一時のくさむらとなる
「国破れて山河あり、城春にして
草青みたり」と、笠うち敷きて
時の移るまで涙を落としはべりぬ

夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡




杜甫の春望は、楊貴妃も命を落とした
安禄山の反乱(安史の乱)で唐の都の
長安が陥落をした時のもので、芭蕉の
方は義経や藤原三代らが功名・栄華を
夢見た平泉での事だ。今回紹介をした
李白、白楽天、杜甫の漢詩は高校の頃
全部習ったような気も




まもなく平成の世が終わろうとして
いるが、天皇ごとの「元号」も中国が
始まりで、古くより漢籍から元号が
選ばれている。例えば「史記」第一巻の
五帝本紀にある「内平外成」や「書経」
大禹謨の「地平天成」から平成となった




その前の昭和の出典は、同じく「書経」
尭典の「百姓昭明、協和萬邦」からで
この「書経」から今までに多くの元号が
作られたそうだが、今春に新しい天皇を
迎えるにあたって




現首相はそういった、日本古来からの
慣例ではなく、漢文で書かれた日本の
古典から、次の元号を採用して欲しいと
言っているらしいが、これって果たして
保守なのか革新なのだろうか




ウィキペディアによれば、元号とは

>「日本書紀」によれば大化の改新(645年)の
>時に「大化」が用いられたのが最初であると
>される。以後、7世紀中後期には断続的に
>元号が用いられたことが『日本書紀』には
>書かれている




>しかし、当時使われた木簡の分析によると
>元号の使用は確認されていない。まだ7世紀
>後半は、元号よりも干支の使用が主流だった
>ようである。文武天皇5年(701年)に「大宝」と
>建元し、以降、継続的に元号が用いられる
>こととなった




>広く庶民にも年号が伝わるようになった
>のは、江戸時代になってからのことである
>1950年(昭和25年)2月下旬になると、
>参議院で「元号の廃止」が議題に上がった。
>ここで東京大学教授の坂本太郎は、元号の
>使用は「独立国の象徴」であり、




>「西暦の何世紀というような機械的な時代の
>区画などよりは、遙かに意義の深いものを
>持って」いる上、更に「大化の改新である
>とか建武中興であるとか明治維新」という
>名称をなし、「日本歴史、日本文化と緊密に
>結合し」ていることは今後も同様であるため




>便利な元号を「廃止する必要は全然認められ
>ない」一方で「存続しなければならん意義
>が沢山に存在する」と熱弁をふるった

ちなみに1400年前の、一番最初の元号の
大化であるが、その出典は




「書経」(尚)大誥「肆予大化誘我友邦君」
「漢書」巻56「古者修教訓之官務以徳善化民、
       已大化之後天下常亡一人之獄矣」
「宋書」巻20「神武鷹揚、大化咸煕」

その次の白雉は、「漢書」巻12 平帝紀の
「元始元年正月越裳氏、重訳献白雉」だとか




ちなみに中国では、ウィキペディアによれば
>前漢の武帝の治世・紀元前115年頃に
>統治の初年に遡って「建元」という元号が
>創始されて以降、清まで用いられた。武帝
>以前は王や皇帝の即位の年数によって、




>単に元年・2年とだけ数えられ、新しい
>王が即位すると改元されて再び元年から
>数えられる在位紀年法が用いられていた。
>治世途中での改元は文帝によるものが
>最初で、改元後は後元年・後2年とされた




>明の太祖(朱元璋)は、皇帝即位のたびに
>改元する一世一元の制を制定した。これに
>より実質的に在位紀年法に戻ったといえるが
>紀年数に元号(漢字名)が付されることが
>異なっている。また元号が皇帝の死後の
>通称となった。




そして蘇州・・いや呉の国で思い出される
のが、着物(和服)の事を「呉服」と言う
これは絹(シルク)などが、呉から日本に
輸出をされ、平安時代あたりまで呉の布を
使って着物を作っていたからだ。↑最初の
「麗王別姫」の唐の衣装など、日本の着物に
通じるものが多々ある




それ以前にネット検索なでをすると、倭には
稲作文化を携えた呉の国の人たちが、戦争に
負けたりで海を渡って、数多く移り住んだと
いう説もあるそうで、 中国の史書に「倭人は
太伯の後裔(こうえい)である」との記事が
あるんだとか




太伯は周の古公亶父の子で、呉(句呉)の
祖とされる人物である。吉野ヶ里などの弥生
時代の墳丘墓が、中国江南地方で呉や越の
限られた時代に行われた土墓の影響を受けた
可能性があり、養蚕が盛んに行われていた
ようで、この時代の人々が呉から日本列島に
渡来したという説もある




現在の中国の国家体制は、100年にも満たず
私が見てきたものは、かつて中国大陸にあった
大昔の王朝や国であって、民族も違っていたり
するのだから、今がこうだから昔もというのは
論点が違うと思う       旅は続く。




            平成31年1月27日に蘇州で撮影

にほんブログ村 旅行ブログへ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村
​​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019年03月06日 09時11分43秒
コメント(55) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.