|
カテゴリ:計量と計測を考察する「計量エッセー」
田中館愛橘とその時代-その7-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則 高野瀬秀隆。井伊家家臣の高野瀬姓は高野瀬喜介だけである 高野瀬隆景。井伊家家臣の高野瀬姓は高野瀬喜介だけである。 日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘 田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族のの子弟は作人館で和漢ほかを教わった。そのご作人館は盛岡中学に変わる。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでないが、高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。昭和14年6月の撮影である。盛岡市に縁のある偉人を語る写真としてよく用いられている。 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に、一家が東京へ移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に教授、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事したのち、帰国して東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期に人を育てた功績は大きい。 田中館愛橘とその時代-その7-(田中館愛橘と高野瀬宗則) 井伊直弼の死を国元へ伝える使者の高野瀬喜介、子息は高野瀬宗則 (本文) 第40話。 井伊大老の襲撃を国元の彦根藩に急報する使者となった高野瀬宗則の父、彦根藩目付役の高野瀬喜介 役名 佐和口門番頭 高野瀬喜介 150石 加番1人、同所門番足軽10人、同所下番2人が附属と「近世大名家臣団の官僚制と軍制-彦根井伊家の場合 佐和口門番頭 高野瀬喜介-母利美和」にある。また往古當國の國司三拾六人の名前一建部山城主建部左京進一下之郷城主多賀豐後守一小脇村城主三井石見守一肥田村城主高野瀬備前守〈高野瀬喜介は此末なり〉とある。 高野瀬一族は浅井氏と六角氏の抗争がつづくなか小領主なりに乱世を生き抜く。尾張および美濃を支配下においた六角氏は足利義昭を奉じ上洛の軍をおこした信長を迎撃したが敗戦、再起をはかるが没落の運命となった。激変のなか高野瀬氏は浅井氏ついで織田氏に従った。信長の部将柴田勝家が越前の一向一揆鎮圧のために天正二年(1574年)に出陣したなかに高野瀬秀隆・隆景父子が含まれていた。高野瀬秀隆・隆景父子は越前安居も戦いでともに討死する。鎌倉以来の高野瀬氏嫡流は断絶する。 彦根城にはいった井伊家の家臣として高野瀬一族が召されていた。井伊家目付役の高野瀬喜助が井伊直弼の代におり、その子の高野瀬宗則は井伊家の戦闘員として若い日を過ごしていた。 高野瀬喜介の子息は東京大学仏語物理学科を明治13年に卒業して駒場農学校(駒場農学校は後に東京大学農科大学となる。現在の東京大学教養学部の所在地)で教鞭をとり、後に指名されて農商務省技師として初代権度課長として度量衡法の制定と計量制度の確立に大きな役割を果たした高野瀬宗則(たかのせ・むねのり)であ。高野瀬宗則は父は彦根藩御目付け役高野瀬喜介と家系を語っている。 高野瀬秀隆は肥田城主である。高野瀬喜介は高野瀬秀隆の子孫である。高野瀬喜介は農商務省権度課課長高野瀬宗則の父である。『度量衡 第42号(大正4、5)』に「高野瀬宗則は嘉永5年(1852)年9月江州彦根藩邸生まる。父喜介は藩の御目付け役なり」と『メートル法沿革史』が引用している。「佐和口門番頭 高野瀬喜介」とある「近世大名家臣団の官僚制と軍制」とは一致しない。役職に変化があるからだ。 安政7年3月3日(1860年3月24日)に彦根藩主で大老井伊直弼は桜田門で水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名による襲撃におって殺害される。桜田門外の変である。井伊直弼の死は極秘にされた。彦根への急報の使者となったのは高野瀬喜介である。喜介は高野瀬宗則の父である。その日に早駕籠にのって西に向かい3月7日夜半に彦根に着いた。井伊直弼の死は多くの者が知っている。西に逃走した襲撃もいた。近江商人の情報網は高野瀬喜介の彦根到着より半日早かったと伝えられている。文を飛脚に託せば有り得ることだが近江商人の情報伝達の速さを物語る逸話になっている。 高野瀬喜介による彦根への急報は意味をもつ。水戸の脱藩浪士の襲撃で首を討ちとられたということは横死ということで、この時代の仕来りではお家取り潰しとして処置される。お家取り潰しをまぬかれるために彦根藩は総力で対応する。結果、直弼の次子の愛麿(直憲)が遺領を継ぐ。 井伊直弼の刈られた首はとりもどされて体に縫い付けられる。幕府には賊を取り押さえようとして負傷したと伝える。3月3日はご節句の一つの上巳の節句である。在府の諸大名は身づくろいして登城、午前10時には大太鼓を合図に式を執り行う。恒例行事に登城する大名の行列を見物することが慣わしになっている。この見物客の町人と侍のために酒と団子を売る葦簀(よしず)張りの店がでていた。 公衆の面前での襲撃によって総理大臣ともいえる地位にある対応の井伊直弼は首をとられた。井伊直弼の首級をさげていた薩摩藩士有村治左衛門は力尽きて遠藤但馬の守の門前で切腹して果てた。遠藤家はこの事態を幕府に届け出て井伊直弼の首級を保存する。紀伊家はその首級は供回りの者であるとして引き渡しを求めた。遠藤家は井伊直弼の首級であれば預かっていると応じなかった。地位ある者の判断によって井伊直弼の首級は井伊家の者に渡された。 襲撃を受けたその日に井伊家は井伊直弼の名で狼藉者を取り押さえるために当主が負傷した旨、公儀に届け出る。将軍は見舞いのものを3月4日と7日の二度差し向ける。井伊直弼は3月30日に家老職を免じられ、4月28日には直弼の次子の愛麿(直憲)に遺領を継がせることになった。井伊直弼の首級を取り戻すことによって形としては横死をまぬかれた。 井伊直弼の首を打ち取った薩摩藩士有村治左衛門は高らかに名乗っている。彦根藩邸から桜田門までは600メートルほどである。有村治左衛門が首をかざすころには彦根藩邸に急を告げる者が駆け込んだ。藩邸から飛び出した彦根藩の後詰めは首のない井伊直弼の胴体を籠にのせ、また雪に散らばった血泥は雪ごと四斗樽にいれて持ち帰った。斬死した7名ほどの井伊藩士の死体も素速く藩邸に引き上げた。不穏な動きの通報は井伊藩邸に何度も持ち込まれていた。井伊直弼の意思で無視された。吹雪という荒天の下とはいえ鞘袋をしていたのは途上見物の人々の眼を気にしてことなのか。幕府による前代未聞の反対勢力への大弾圧をしたことで登城をあえて型どおりにさせたと考えられる。 途上の日は吹雪であった。思いがけない荒天に供の者は雨合羽で刀には柄袋をかけていた。吸収されたら抜刀の間がない。押しかけた賊は籠の銃弾を撃ち込んだ。直弼の大腿から腰に弾が抜けて神経を破壊した。居合い、抜刀術では一家をなすほどの腕前の直弼も神経をやられてはなすすべがない。無抵抗のままに首を討たれた。 このことが公儀に隠しようのない事実として伝われば当時のしきたりとして井伊家はお取り潰しになる。播磨赤穂藩第3代藩主、浅野内匠頭(あさの たくみのかみ、官名)松の廊下での刃傷事件は事情は違うがお家取り潰しの扱いであった。赤穂浅野家の家系は広島藩浅野家の傍流の一つである。)松の廊下刃傷事件では早籠が二度国元に向かっている。事件の通報と切腹の通報である。早籠に乗った者は藩の忠義者であった。 御目付け役あるいは目付そして大目付などのその役職の内容はどのようであったか。 幕府における大目付(おおめつけ)について。 江戸幕府の職名に大目付がある。幕政一切のを監察しする役目で、大名,寄合、高家を監視した。大目付は老中の支配に属し,旗本が任命された。大名を統制する関係から任期中は大名と同じ処遇をされた。旗本が任じられる役職としては留守居、大番頭に次ぐ位置にあった。複数の者が役職に就くこともあった。徳川幕府では柳生宗矩と水野守信が初代(1632年から 1636年)の大目付であった。 目付(めつけ)の役職について。 目付とは、 江戸幕府および諸藩において不行跡をしないよう見張る役目の職名である。軍目付(いくさめつけ)。戦場での将兵の監視役、戦国大名が配下が合戦中の勝手な行動を取らないようにする見張り役であり、合戦において一番槍や首実検をするなど勲功の確認もした。軍目付は幕末ごろには軍監とも呼ばれた。 諸藩における目付(めつけ)の役について。 諸藩では馬廻格の藩士より有能な人物を目付役にした。目付は大目付や家老の支配下に置かれることが多い。目付の下に徒目付、歩行目付、横目などを置いた。徒目付、歩行目付、横目は足軽や徒士の戦果及び、勤務を監察した。 仙台藩では奉行(家老相当職)に対しても監察権を持っており、幼少の藩主伊達綱村の後見人であった伊達宗勝が、目付の権限を強化することを通じて専横を振るった。このことが伊達騒動につながったとされている。 井伊直弼の暗殺を国元に通報するための早駕籠は高野瀬喜介をのせて箱根峠を越えた。箱根駅伝よろしく籠を乗り継いでの箱根越えである。襲撃した一党の者が同じころ三島宿で抱き茗荷の紋を付けた者が籠からじろりと外を見ていたと逃亡の者が漏らしている。高野瀬秀隆の一族、佐々木氏流藤原秀郷流で高野瀬氏の墓碑に「二つ引両」の家紋が刻まれている。「五宮より柊紋を賜う、初めは三つ柏」という記録も残されている。三つ柏が本来の紋であったのかも知れない。 家紋は事情によて変わる。 彦根への急報のためには箱根越えをするのが近道であった。途中から東山道(中山道)を通って彦根に入る。 (つづく) (調べの十分でない事柄や誤字、表現の不適切さなどについてはご寛容のうえ解釈してお読み下さい。横田俊英) 2018-11-30-tanakadate-aikitsu-7-kisuke-takanose-messenger-tells-death-nation-measurement-data-bank-web-a- お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018年12月04日 13時44分40秒
コメント(0) | コメントを書く
[計量と計測を考察する「計量エッセー」] カテゴリの最新記事
|
|