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2018年12月04日
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田中館愛橘とその時代-その8-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄


彦根藩主にして大老井伊直弼(いい・なおすけ)の肖像。

日本の物理学を背負う人々を育てた田中舘愛橘

 田中館愛橘は盛岡藩の藩校作人館で学んだ。原敬、新渡戸稲造など盛岡藩士族のの子弟は作人館で和漢ほかを教わった。そのご作人館は盛岡中学に変わる。盛岡中学からは陸軍士官学校、海軍兵学校に進むものが多く、板垣征四郎陸相、米内光政海相がそうであった。在京の同中学同窓のものが盛岡中学時代の恩師である冨田小一郎を招いて新橋で謝恩会を開いたおりには田中舘愛橘も招かれた。作人館と盛岡中学は同じと考えてのことか盛岡藩出身者だから招かれたのかは定かでないが、高名な物理学者であり愛される人柄であることによることは確かである。

 田中舘愛橘(たなかだて あいきつ)は、安政3年9月18日(1856年10月16日)の生れで、没年は1952年(昭和27年)5月21日)。南部藩の藩校で学んだ後に、一家が東京へ移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。卒業と同時に準助教授、翌年に教授、のち英国グラスゴー大学に留学してケルビン教授に師事したのち、帰国して東京大学教授に任命される。教授就任の翌月に理学博士。日本の物理学草創期に人を育てた功績は大きい。

田中館愛橘とその時代-その8-(田中館愛橘と高野瀬宗則)
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄

(本文)

第41話。
彦根藩主の井伊直弼(大老)による安政の大獄


 大老職に就いた井伊直弼がなしたのは幕府への反対勢力への大弾圧であった。桜田門外への変があった安政7年3月3日(1860年3月24日)から幕末の政局は大きく動く。尊王・攘夷派など幕府に敵対する勢力への大弾圧弾圧である「安政の大獄」が契機であった。政府の側の尋常でない行動であり、これはテロともいえる。安政5年(1858年)から安政6年(1859年)の間になされた大弾圧が「安政の大獄」である。

 徳川家康の第一の家臣団であった井伊一族の忠義が形を変えて現れたのが「安政の大獄」であった。やけっぱちな行動である。常軌を逸した大弾圧であった。処置の「隠居」とは藩主の地位から退けられることである。吉田松陰ほか10数名が処刑された。水戸藩家老安島帯刀は切腹。「獄死」の形をとっているものも実質上は刑死。

 水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平春嶽、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内容堂、佐倉藩主堀田正睦、前掛川藩主太田資始が「隠居」を命ぜられた。

 「安政の大獄」で 死刑ならびに獄死した者は次のとおり。
吉田松陰 長州毛利大膳家臣、斬罪
橋本左内 越前松平慶永家臣、斬罪
頼三樹三郎 京都町儒者、斬罪
安島帯刀 水戸藩家老、切腹
鵜飼吉左衛門 水戸藩家臣、斬罪
鵜飼幸吉 水戸藩家臣、獄門
茅根伊予之介 水戸藩士、斬罪
梅田雲浜 小浜藩士、獄死
飯泉喜内 元土浦藩士・三条家家来、斬罪
日下部伊三治 薩摩藩士、獄死
藤井尚弼 西園寺家家臣、獄死
信海 僧侶、月照の弟、獄死
近藤正慎 清水寺成就院坊、獄死
中井数馬 与力、獄死

 隠居・謹慎を命ぜられた者は次のとおり。
一橋慶喜 一橋徳川家当主(徳川慶喜)
徳川慶篤 水戸藩主(9月30日に免除)
徳川慶勝 尾張藩主
松平春嶽 福井藩主
伊達宗城 宇和島藩主
山内容堂 土佐藩主
堀田正睦 佐倉藩主
太田資始 前掛川藩主
川路聖謨 江戸城西丸留守居
大久保忠寛 江戸城西丸留守居
中山信宝 水戸藩家老(9月27日に免除)
松平忠固 上田藩主
本郷泰固 川成島藩主・若年寄(1万石から5千石へ減封、川成島藩は消滅)
土岐頼旨 大目付・海防掛
石河政平 一橋徳川家家老

 桜田門外への変があったのが安政7年旧暦3月3日(1860年3月24日)。つづいて次のような事件が起きている。江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正(磐城平藩主)を襲撃し負傷させた事件「坂下門外の変」(1862年)、生麦事件(1862年)、寺田屋騒動(1862年)、生野の乱(1863年)、天誅組の挙兵(1863年)、薩英戦争(1863年)、池田屋騒動(1864年)、蛤御門の変(1864年)、下関砲撃事件(1864年)がそれである。

 「安政の大獄」と吉田松陰の処罰、斬罪の事情はどうであったか。

 安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結する。この時代になると朝廷への手続きがやかましく問われるようになる。幕府の力が弱ったことの反映でもある。尊皇攘夷をもってする吉田松陰は、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明の為に上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫る。このような行動で態度を変える幕府ではないことを承知で談判し、聞き入れられなければ殺すというのだからテロである。

 本気でそれをやろうとした松陰は長州藩から大砲や武器弾薬を使おうとした。藩はこれに応えない。つづく策として松陰は参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受けて伏見要駕策への参加を迫ろうとする。 久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子の多くは伏見要駕策の自重を求めた。松陰の失望はこの上ない。松陰は、伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱く。その後に草莽崛起論を唱えるようになる。

 松陰は、幕府が日本にとって最大の障害になっている考え倒幕を唱える。長州藩は吉田松陰を危険思想の持ち主として野山獄に幽囚する。

 安政6年(1859年)に勤王の志士、小浜藩士・梅田雲浜は幕府に捕縛される。梅田雲浜は萩に滞在した際に吉田松陰と面会していること、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武二郎が雲浜の門下生であったことなどによって、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄される。獄にあった吉田松陰が問いただされたのは、雲浜が萩に滞在したおりの話の内容であった。松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を意図して話す。話せば極刑になる。吉田松陰は安政6年(1859年)10月27日、伝馬町牢屋敷にて斬首刑になる。享年30(満29歳没)。

 北方警備を自らの手によってでも実行するために私塾かつ道場の形式で組織をつくっていたのが相馬大作である。ロシアの蝦夷地上陸を阻止し日本による実行支配を維持しようという計画である。相馬大作事件(そうまだいさくじけんは南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)の別名。北方警備を南部藩とともに担うことになっている弘前藩主の津軽寧親の怠慢を正す行動を計画した。意見して聞き入れられなければ殺すというのだ。37年後に吉田松陰が同じことを計画する。相馬大作は実行に移すが内部通報によって津軽寧親は難を逃れる。文政4年4月23日(1821年5月24日)に画策された。

 南部藩には藩領を津軽一族に盗み取られたという感情がある。感情の背景となる事実の是非は別にして、このことと併せて北方防備を怠る津軽寧親を武力をもって諫めるという行動に出た。参勤交代の帰国、国境の峠に大砲を備えて襲撃する計画を立てて実行に移した。内部通報によって未遂になり、相馬大作は江戸に身を隠すも津軽藩の密偵が通報したことで捕縛される。相馬大作は小塚原で処刑される。

 南部藩士・下斗米秀之進(相馬大作)の考え方とその行動は吉田松陰のそれの下絵になっている。

 明治の物理学の草創期に活躍した田中舘愛橘の祖祖母は相馬大作こと南部藩士・下斗米秀之進の姉である。尊皇攘夷の名分によって反幕府勢力を大弾圧して井伊直弼の家臣であった高野瀬喜助の子息の高野瀬宗典と下斗米秀之進の子孫にあたる田中舘愛橘はともに東京大学で理学部卒業する。高野瀬宗典の卒業は明治13年である。田中館愛橘は明治15年7月に卒業する。高野瀬宗典は東京大学フランス語物理学科の卒業である。田中館愛橘はフランス語物理学科が廃されていて英語による物理学を習得しての卒業であった。この時代、普仏戦争によるフランスの敗北が国の政策をイギリスの方式を用いるように動いていった。大学の在り方もそのような動きをした。

 田中舘愛橘と高野瀬秀隆は、二年先に高野瀬秀隆が東大理学部を卒業し、後に指名されて日本の度量衡制度をフランス方式のメートル法によってつくり上げる道を進む。田中舘愛橘は英米の招聘教員による物理学、数学教育を日本人の手によって行うことに道をつけた。幕閣にあった彦根藩の藩士である高野瀬秀隆と幕府に最後まで抵抗した南部支藩福岡藩50石取りの軍師の子の田中館愛橘のは、官界と大学を働きばして明治の物理学と度量衡の世界で活躍した。奇しき巡り合わせである。

(つづく)

(調べの十分でない事柄や誤字、表現の不適切さなどについてはご寛容のうえ解釈してお読み下さい。横田俊英)

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最終更新日  2018年12月04日 15時02分34秒
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