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「計量計測データバンク」ニュース

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2020年01月29日
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カテゴリ:エッセー
私の履歴書 蓑輪善藏-その4-戦時色が強まる中の中央度量衡検定所


    写真は蓑輪善藏氏

私の履歴書 蓑輪善藏-その4-戦時色が強まる中の中央度量衡検定所

Central metrology test center in the midst of wartime color

技手に任官

 前年の11月1日に商工省は大部分が軍需省になりましたが中検は農商務省の所属になっていて、所長に叱られたものの3月31日づけで農商技手に任官していました。

 計圧器係には谷川さんの外には次席の技手須藤達郎さん、雇員の白井岩一さん、玩具作りになりたいと言っていた中村さん、フクちゃんとあだ名のついた和田さんが居ましたが、須藤さんは病気療養中でこの年退職しました。白井岩一さんも居られたように思いますが、白井さんは一度退職し、敗戦後に再就職した筈です。

計圧器係に

 計圧器係は圧力計、真空計、聯成計の検定係で約10基の試験機を使っての作業で、油だらけの作業服が所内でも有名でした。感化院と呼ばれた原因の1つは谷川さんの小言にあったらしく、2時間、3時間に亘ることは普通のことでした。

 2カ月間くらいの間でしたでしょうか、何故か谷川さんに反抗する毎日で必要以外口も利きませんでしたが、仕事の方は検定心得と言う極めてよくできた手引書があり仕事には支障はありませんでした。

感化院谷川盈科さん

 朝9時に出勤して9時30分に早退したことがあり、日計簿(毎日の処理した検定数を記録する帳簿)にでかでかと蓑輪9時30分早退と書かれたことも有りました。ある日のこと、玉野さんが検定室にこられたとき、谷川さんと、玉野さんの言葉を伝えたかどうかの、言った聞かないの水掛け論を言い合ったことがありました。

 これがキッカケだったとは思いませんが、多分谷川さんは次席と認めたのか、その後少ししてから、今度は谷川さんと極端な友好関係になり、全面的な信用を得ることができ仕事も楽しく色々のことを教えてもらう様になりました。

出征職員で人手不足に

 兵役のために出征する職員は現役で入営する職員と共にますます増え、男子職員の不足は甚だしく、事務方の人で1年間に200日近くも出張する人が出たほどでした。この人手不足を補うためでしょうか、この年戦時体制からの女子低身隊と称した大妻技芸学校の卒業生が大挙入所し、女子職員の数は更に多くなりました。

 アメリカ軍による空襲の危険から、疎開と称して木造家屋の取り壊しが中検付近でも進行し、中検の東側にあった木造2階建ての通産本省が取り壊されたのもこの頃だったと思います。

 千駄ヶ谷の下宿も取り壊しの対象となったため、下宿探しを余儀なくされましたが、今度は飯島肇さんにお世話になり、淀橋浄水場の近く柏木に移りました。荷車を借りて荷物を積み、飯島さんと柏木まで運びましたが、ここでは賄いが付かず、再び外食券食事に戻りました。

3条だけの計圧器の検定規則

 検定業務は度量衡法に基づいて作られ、器種毎に1冊にまとめられて、受付から下げ渡しまでを説明した検定心得によって処理されていました。谷川さんの口癖は、計圧器に関する検定規則が3条しかないと言うことと、器差の検査は検査したときの事と言うことでした。

 これは裁量権が大きいということになるので、前例、その他が大事という事と、逆に意地悪も勝手ということになるのでしょう。この頃検定における合格、不合格の決定権は、ほぼ係長に有った様で谷川さんが伺いを立てたことを知りません。

 前例、その他は3冊の指令通牒集と通達、県からの質問に対する返答の文書などが厚くとじてありましたが、計圧器に関するものは少なく殆ど諳んじていました。この頃になって漸く先輩の中検職員の顔と名前が覚えられたように思います。

理科系学生で入営延期

 この年の6月徴兵検査を受け甲種合格となりましたが、理科系の学校であったので1年間の入営延期制度(前年からでしたか徴兵延期から入営延期になっていました)があり、入営は1945年9月の卒業まで延期されていました。

 飛行機雲を作りながらのB29の飛来も頻繁になり、中検でも空襲による防災体制として、所長を除く男子職員を7、8名ずつ7、8班に分け毎晩交代で宿直することになっていました。

原器を地磁気観測所に疎開

 この年の9月、空襲による焼失を防ぐためメートル原器とキログラム原器とを茨城県の柿岡地磁気観測所に疎開しています。この時の責任者は米田麟吉さんと佐藤朗さんでした。11月には貴金属の供出が強制されメートル副原器とキログラム副原器とが海軍省に移管されています。これらの副原器は1946年5月中検に戻りましたが、後GHQの命令で1947年4月韓国に輸出されました。

 11月になった雪の降る日に空襲があり、1年ほど厄介になった神田美土代町の蓑輪甲子三氏宅が焼けました。年が明けた1945年早々には物理学校では後期の試験も終わり、3年の授業が始まっていました。窓ガラスが割れても入れることができず、オーバーにくるまって授業を聞いていました。

宿直日に3月大空襲

 3月10日未明の大空襲は宿直の当番日で木挽町の庁舎に居ましたが、東京最初の大空襲でもあり非常に驚きました。

 庁舎付近に被害はありませんでしたが下町方面の火は天を焦がし庁舎内で新聞が読めるほどで、門の前にきた憲兵は関東大地震よりも酷いと話していました。数日後、計量研から神奈川県に移った宮里勇さんが火傷され、父親に背負われて中検に見えられたのを思い出します。

5月の空襲でも当番

 この後横浜、東京などの空襲日には岡田さんを長とする私達の宿直当番の日が多く、5月25日未明の新宿、四谷、銀座等が被害を受けた時も当番の日で、玄関前で莚を天水桶に浸していた時、突然と電車の近づくような音が聞こえた途端、皆で玄関の中に飛び込みました。直後、焼夷弾が落ちて玄関前にあったダットサンは火達磨になってしまいました。

 B29の高度は3500メートル程で中検敷地内にも多数の焼夷弾が落下し屋上などは火の海でした。この時の焼夷弾はエレクトロン焼夷弾と油脂焼夷弾でしたが屋上などは燃えるに任せ、B29の高度が低かったため窓を破って庁舎内に落ちた焼夷弾数発を消して回りました。

図書室の文献を消失

 吹き抜けの中庭をはじめ殆ど消しましたが、2階の図書室のみ発見が遅れ、濛々とした煙の中、中谷さんなどが防毒マスクをつけて消火に努めましたが、貴重な書籍、文献を失ったことは残念なことでした。この時の宿泊者は岡田嘉信さんを長とした安並博さん、庄司行義さん、中谷昇弘さん、大島頼年さん、野崎平さん、多賀谷宏さんと私だったように思います。

 戦争が終わっていたこの年の12月渡辺所長から金一封を頂きました。中検の隣に立っていた工業品検査所の建物は軍需省の倉庫になっていましたが、私たちが庁内の焼夷弾を消して一息ついた頃に3階から火の手が上がりましたが、宿直者も居なかったようですし、鍵も探しようが無く消すことも出来ず燃えるに任せてしまいました。

空襲で天野清さんらが亡くなる

 岡田さんといえば、この頃食用蛙(蛙)を釣ってきて料理するのを趣味のようにしていて、岡田さんの手料理で食用蛙を食べた職員も大勢いた筈です。

 この日柏木の下宿も焼け、学校の寄宿舎に入るまでとして、直ぐ下の弟昭二がその下宿に宿泊していた時のことで近くに焼夷弾が落ちたりしたものの、淀橋浄水場付近に逃げたりした後、弟は昼少し前に木挽町の庁舎まで歩いてきました。午後、今度は弟と一緒に焼野原と化した四谷を抜け柏木の下宿まで行き、防空壕に入っていた弟の寝具を2人で担ぎ、電車が通っていた御茶ノ水まで歩き夜遅く佐原の家までたどり着きました。

 この後、弟は東京に出ることを諦め税務署に就職してしまいました。中検に就職してからの計量教習のノート、物理学校での教科書、ノート、やっと買った参考書など、総てが烏有(うゆう)に帰してしまいました。

 これより前、4月の空襲で工業大学に移られた天野さんが焼夷弾の直撃をうけ亡くなられたのを聞いたのも、所員の矢島昭子さんが火傷して入院した後亡くなり、牛込に住んでいた谷川さんが焼け出されていて、住む所も無いため、計圧器係の部屋に泊まり始めたのもこの頃のことです。

空襲後は検定の仕事はなくなる

 5月25日に焼け出された私も計圧器係の部屋に組み立て式のベッドを持ち込み、谷川さんと一緒に寝泊りするはめになってしまいました。学校に行っているときと出張に行っている時を除いて、朝から晩まで谷川さんと一緒でしたが、息のつまる事もなく昔話を聞きながら仲良く生活していました。この頃は最早検定の仕事も殆ど無くなり、学校の勉強をするか、焼け跡を散歩することが日課になっていました。谷川さんは新橋演舞場の裏でハゼを釣ったりして夕食の菜の足しにしていました。

(つづく)

【東京物理学校に関連する資料】
田中館愛橘とその時代-その13-(田中館愛橘と高野瀬宗則と関菊治)
明治24年から二年間だけあった物理学校度量衡科の卒業生68名のなかに関菊治がいた


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最終更新日  2020年01月29日 11時51分14秒
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