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2020年07月04日
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カテゴリ:エッセー
寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞
寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

清里の清泉寮は寒冷地農業の開発に貢献した。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

右上に掲げてある写真が開祖のポール・ラッシュ氏。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

清泉寮の牧場の正面に金峰山がそびえている。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

茅野市の八ヶ岳実験農場の先に広がる八ヶ岳連峰。

寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

川上村の夏月はレタスの緑、青空、白い雲とで彩られる。
寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

八ヶ岳は山体崩壊したために現在の高さになった。

(タイトル)
寒山の森の田渕義雄さんとソローの森の生活 甲斐鐵太郞

(本文)

八ヶ岳に憧れる

 八ヶ岳に憧れている。八ヶ岳とその山麓の空気は私には特別な刺激であった。八ヶ岳登山は美濃戸口経由で阿弥陀岳、赤岳、横岳、硫黄岳とぐるりと回ることで始まった。美濃戸口からの八ヶ岳登山はそれだけでも八ヶ岳山麓の雰囲気を醸すものであった。その後に野辺山など小海線沿線の登山口から北八ヶ岳に足を運ぶようになって八ヶ岳とその山麓がおりなす風景に魅了されるようになった。清里の清泉寮の頭上を覆う赤岳はよい。

 野辺山からあがった八ヶ岳ヒュッテはお屋敷を移した建物であり贅沢なつくりであった。ここを舞台にできの悪いドラマの主人公を田宮次郎が演じていた。冬に撮影されたドラマであったことや社会派風の人間ドラマであるために八ヶ岳山麓の魅力はなかった。

 八ヶ岳ヒュッテのある野辺山の西には八ヶ岳が翼を大きく広げている。野辺山や川上村からの八ヶ岳の眺望は爽やかさと雄大さこの上ない。仕事での会合の帰り道、知り合いをこうした風景を案内し雰囲気のよいレストランで食事をしたことがあった。この人は数年も経ないうちに八ヶ岳山麓に邸宅を建てて移り住んだ。定年を節目に完全に八ヶ岳の住民になった。オーディオが趣味で奥さんは歌をYouTubeにアップすると人気になる人であった。東京六大学のある一つの大学で電気工学を学んだ人であった。オーディオには特別な思いがある。音響のための設備をした部屋でクラシック音楽を流してくつろぐのである。ある知人が招かれたときの様子を私に語っていた。

山麓生活ということでの別荘暮らしとなると八ヶ岳山麓が選ばれる。その別荘は小淵沢から西側の方面の南麓がよい。知人も個々に住居を移してオーディオの趣味を満喫している。

私の夏休みは八ヶ岳で過ごすことであった。八ヶ岳登山をし山麓の宿から周辺の川に釣りに行くことなどである。正月には清里の清泉寮に泊まることが多かった。年が明けるその時間に外国人たちが爆竹を鳴らしてはしゃぐのを珍しくみていた。清泉寮の洋館を張り込んだことなどは思い出である。ポール・ラッシュはこの地に寒冷地農業を普及させたことになっていて、清泉寮もこの人の尽力で建設された。清泉寮の洋館は石を積み上げてつくられていて他にはない趣がある。アーリー・アメリカとアメリカキリスト教はとはこういうものなのだと洋館に泊まって思ったものだ。

清泉寮の石積みの洋館

 清泉寮の洋館のような部屋が一つあれば八ヶ岳での暮らしはそれですむという思いがある。机を一つ、小さな調理場がついていればそれでいい。冬場の暖房が一度切れると暖めるまで二日三日かかる。建物ぜんぶが冷え切るからだ。薪(まき)ストーブにはあえてこだわらない。タンクを外に設置する石油ストーブを使う。このようなことを考えている。

 川上村を八ヶ岳山麓と決めてしまうのには抵抗がある。川上村からの登山に金峰山がある。小川山は岩場の登山で人気である。金峰山登山のために廻り目平キャンプ場と併設の宿をたびたび利用した。5月の連休の金峰山では足下の雪に悩まされたことがあった。登山の後先には千曲川の支流をなす幾つかの川でイワナを釣った。雪解けの水が冷たい川だ。廻り目平にいるとここは八ヶ岳山麓だと思わない。野辺山の方面に移動すると八ヶ岳の裾野がここまで流れてきていてレタス畑が開墾されているのだと思う。

韮崎市の七里岩は八ヶ岳が崩壊したことによる岩屑雪崩の跡だ

 八ヶ岳は火山性の山地である。何度も噴火して山がもりあがりそして山が崩れた。韮崎市の七里岩は八ヶ岳が崩壊したことによる岩屑雪崩の跡である。須玉から韮崎にかけて走る尾根を断層だと思っていた。八ヶ岳の崩壊による岩屑(がんせつ)雪崩の堆積などを計算すると富士山より高い山だった。八ヶ岳山麓の広がりはそのようなことだと納得させる。八ヶ岳崩壊は近代における磐梯山崩壊が教える。火山の噴石でできた山は脆い。地下水がマグマの影響で沸騰すると水蒸気爆発を起こす。北八ヶ岳方面の山塊が崩壊し川を堰き止めて千曲川のみならず流れ下って信濃川の洪水を引き起こしている。台風の大水によっても似たことがおこる。

川上村川端下の地に住む田渕義雄さん

 韮崎から増富方面に向かい塩川ダムを経て信州峠を越えて川上村にでる道順で車を走らせる。車に自転車を積んでいて峠からの下りを駆け下りるのは贅沢な遊びであった。廻り目平まで行ってそこから林道に入って国師岳に抜ける道は冒険心を満足させる。廻り目平から国師岳方面に向かう道の途中に住んでいるのが田渕義雄さんであった。川上村川端下(かわはけ)の地である。イワナがいる川が流れ小川山の岩場がそばにある。昔はなかったレタス畑がこの地にまで上がっている。

 都会のマンション暮らしをしていると野にでたくなる。そして川上村を流れる小さな渓流や千曲川本流の流れでの釣りをすることは夢見心地に心境だ。矢も楯もたまらず川上村の川に行きたい。そのような気持ちが充満するマンション暮らしである。都内の釣具屋で釣り具をみては千曲川を思う。書店に行っては釣りや野外遊びの本を手にする。そのようにし巡りあったのが田渕義雄さんの著書であった。「寒山の森から―憧れの山暮しをしてみれば」(田渕義雄)。フライフィッシング教書 初心者から上級者までの戦略と詐術のためにフライフィッシング教書(シェリダン・アンダーソン、田渕義雄訳)。この二冊の本と田渕義雄さんと川上村一まとめになって私の川上村と田渕義雄さんが形成された。

ナチュラリストの田渕義雄(たぶち・よしお)さん

 田渕義雄(たぶち・よしお)さんは1944年東京生まれ。早稲田大学を卒業している。出版社勤務の後1982年、金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。川端下の家は自分で建てた。早稲田と出版社と編集者ならびに執筆活動ということで結ぶつくのだが、こうした生活を絶って標高1,400メートルの地で暮らすようになった。出版社との執筆契約などの収入があること、執筆活動に自信があったこと、蓄えなどを原資に生きていく自信があったためだろう。フライフィッシュングが好きでロッククライミングが好きで、これをしていることは何物にも代えがたい、のであった。都会暮らしというのは公園の緑があっても、緑の並木道があってもそれは造られた人工物である。本物の自然ではない。公園の緑は決して人を癒やしきらない。あるとすればせいぜい日除けとしての緑だ。

 鮎釣りの名士が言った。東京大学入学を志していたのだが釣りをしているときに「もしかしたら人生は釣りをしていればいいのではないか」と決断をしたらすべての惑いが消えた。釣りは人を虜(とりこ)にする。

ソローの「ウォールデン 森の生活」と田渕義雄さんの川上村川端下の暮らしが重なる

 田渕義雄さんの川上村川端下(かわはけ)の暮らしに「ウォールデン 森の生活」を連想する。『ウォールデン 森の生活』(ウォールデン もりのせいかつ、原題 Walden; or, Life in the Woods)のことだ。ヘンリー・デイヴィッド・ソローによる著作である。1854年にティックナー・アンド・フィールズ社から出版された。ソローがウォールデン湖のほとりで、1845年7月4日から2年2ヶ月2日に渡って小屋で送った自給自足の生活を描いた回想録である。自然や湖、動物などの描写だけではなく、人間精神、哲学、労働、社会など幅広い範囲への言及を含む。作者の死後に評価が高まり、1930年代から40年代に至るころには、アメリカノンフィクション文学の最高傑作の一つと称されるようになった。

 ソローがいう「森の生活」という言葉からは人里離れた山奥を連想するがそうではない。人里に近いウォールデン湖の森で自給自足の生活をして鳥や獣と会話し、読書をして思索の執筆をしたのだ。ソローは最高の学歴を持った知識人であった。牧師の説教にも似た形で大勢の人々を前に知識や自分の考え述べるという立場であった。今の大学教員以上の知識階級の属していた。そのような立場の人が2年2ヶ月2日を過ごした記録がソローの「森の生活」という著作である。

 田渕義雄さんは1982年から金峰山につづく川上村川端下(かわはけ)に住んで執筆活動をする。家は自分の手で建てた。自給自足を貫くために薪(まき)ストーブを使った。薪づくりは大仕事だ。冬場が長い標高1,400メートルの寒冷の地で過ごすためには薪が沢山いる。薪を用意するために20万円が要る。家具と調度品も自作した。薪をつくるときに出てくる枝を使ってウインザーチェアを自作した。座板は木をつなげればいいし、大きな板ならそのまま使える。田渕義雄さんのロッキングチェアはそのようにして生れた。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。

ソローと『森の生活』

 『森の生活』は、米国の19世紀のかくれた思想家ヘンリー・D・ソローの著書の名称です。その著書にはウォールデンの副題がついており『森の生活-ウォールデン-』として岩波文庫と講談社学術文庫から出版された。

 ソローの思索を著述している。ソローはナチュラリストでありトランセンデンタリズムに生きた人だ。言葉は簡単には現代の人々には理解しにくい。同じようなことを話している吉田兼好の「徒然草」、鴨長明の「方丈記」だと思えばいい。がこれとは違うからややこしい。

ナチュラリスト

 ナチュラリストとは、自然に関心をもって、積極的に自然に親しむ人のことをいう。それ以上の難しい解釈は日本におけるナチュラリストを語る場合には不要である。場合によっては都会の暮らしに馴染めないために自ら積極的にあるいはわざわざ都会から離れて自然豊かに場所に移って暮らすことをいう。

超絶主義者(トランセンデンタリズム)

 超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、19世紀後半,米国のニューイングランドに興った思想運動。超越主義あるいは超絶主義ともいう。カントの先験哲学をさす場合もあり、これには先験主義との訳語をあてて区別することが多い。ここでの超絶主義者(トランセンデンタリズム)とは、エマソンを中心に、T.パーカー、W.E.チャニングらのユニテリアン派牧師、H.D.ソローらがつどい、超経験的な直観による世界把握、自然と精神の調和、小共同体による社会改革などをめざした運動をいう。ドイツ観念論とのつながりよりも、英国のロマン主義(コールリジ,カーライル)やJ.エドワーズ以来の信仰復興運動の影響が強い。ピューリタニズムの世俗化というアメリカ思想史の基本動向を反映する。ホーソーンらアメリカ象徴主義文学にも影響している。

嫌いならば都会と組織から抜け出せばいい

 都市での暮らしに馴染めない。あるいは組織機構に組み込まれた業務が苦手な人がいる。いつしか都市生活にも組織での仕事に嫌気がさして逃げ出す人がいる。逃げ出すというよりもそれができない、それをしたくない、身体と精神が拒絶反応をするという人がいる。ある割合でこのような人が世の中に組み込まれているのだ。東大入学が絶対課題になっていた人は人生は釣りをしていればいいのだ、と決めてそれから抜け出した。都会が嫌で、組織での仕事が嫌な人は抜け出せばいい。嫌なものはしない。嫌なことをしているのなら止めればいい。あとは何とかなる。自然の中がいいならばそうしたらいい。日本が農業国であった戦前は都会が嫌な人を田舎が受け入れた。

ヘンリー・D・ソロー

 ヘンリー・D・ソローは1862年5月6日に45歳で病没する。この年の9月にリンカーンによって奴隷解放宣言が公布された。ソローは奴隷解放主義者を支援するとともに自らも政府への不服従の行動をとる。悪をにくみ奴隷制度を養護する国家権力への良心にもとづく不服従という姿勢は、ガンジーの心を動かしたほか1960年代の黒人解放運動のリーダーであったマーチン・ルーサー・キングに影響した。

 マサチューセッツ州コンコードに生まれたソローはハーバード大学を卒業する。コンコードの小学校教員になるが、学童のへのむち打ち教育に反対して2週間で辞職する。その後兄とハーバード大学に入学する前に通っていたコンコード・アカデミーの経営をする。コンコード・アカデミーで全人教育に打ち込む。兄の病死によってそこでの教育活動は3年で閉じる。コンコード・アカデミーでの教育活動のようないきさつはよくわからない。学校経営はコンコード・アカデミーの名称と建物をソロー兄弟が借り受けてのものだったようだ。ソローは学校経営と離れるが、その生涯は教育と深い関わりがある。ソローは45歳で病没するまでコンコード成人教養講座での講師として活動する。

超絶主義者(トランセンデンタリズム)エマソンのソローへの影響

 超絶主義者(トランセンデンタリズム)のエマソンが『自然論』(Nature)を刊行したのはソローが20歳のときであった。ソローはハーバード大学在学中にエマソンはここで講演する。エマソンの説に共感したソローは超絶クラブの会員になる。ソローは生涯をナチュラリストあるいは超絶主義者(トランセンデンタリズム)として送るきっかけがここにあった。

 コンコードにはエマソンなど多くの知識人がいてソローに刺激を与える。この時代はイギリスは産業革命の嵐のなかにあった。人々は金権主義、物質主義に走っていた。このような社会背景があった。ナチュラリストとして生きようとするは金銭的な豊かさを求めなかった。コンコード成人教養講座でのソローの弁舌は人々の尊敬と共感を得た。

 ソローの『森の生活は』は、ソローの28歳からの2年2ヶ月間の生活をもとにしてて書かれた。ソローはコンコードの町から離れたウォールデン湖のそばに小屋を建てて2年2ヶ月の生活する。ソローはここで自給自足に近い生活をし、ウォールデンの森からコンコード成人教養講座に出向いて講演をした。

 ウォールデンの小屋では畑仕事をし、読書をし、執筆をした。小屋での生活を始めたのが7月4日のアメリカの独立記念日であった。ソローは、自然のなかに人間がその身を投げ出して、自然から受けるものを肌身で感じることによって、人間が本来持つ生きる喜びを感じとることができる、考えた。そしてこれを実行した。

 ウォールデン湖畔での生活とそこでの思索は、『森の生活-ウォールデン-』として出版される。ソローはこの著書を刊行したのは2年2ヶ月の森での生活の7年後のことだった。『森の生活』刊行までには7稿まで推敲をして決定稿にした。初版が刊行されたのは1854年8月9日で、二千部出版された。ソローは37歳になっていた。ダーウインの『種の起源』、マルクスの『経済学批判』が出版されたのは1850年だから、ソローの『森の生活』はそれより6年前に刊行された。『種の起源』や『経済学批判』に比べる地味な著作物ならびに思想であるために、社会の反響を呼ぶことはなかった。

 ソローの著書は『森の生活-ウォールデン-』は、ソローが生身でソローの全霊を自然に晒(さら)して自分と向き合い、思索を重ねたうえでの静かな声明であった。世の評価を受けるのはソローの没後何年も経てからのことである。

 「森の生活」でソローは家計簿を示す。支出は鍬代、畝立て代、豆の種子代、種用の馬鈴薯代、エンドウ豆の種子代、かぶらの種子代、カラス避けようのひも引き代、馬人夫と少年の3時間の賃金、収穫のための馬と荷車代。収入は豆、馬鈴薯等の売り上げ。差し引き少し勘定でお金が残る。

田渕義雄さんの勘定書にウィンザーチェアーが加わる

 田渕義雄さんの寒い山の木工室のロッキングチェアの家具が人気だ。自分が使うものは自分でつくる。これは人生最大の暇つぶしだと田渕義雄さんは言う。畑を耕して薪をつくって、調理をし、あれこれするうちの一つにロッキングチェア製作がある。ソローの森の生活の家計簿には自作した作物と買うものとの勘定書がある。田渕義雄さんの勘定書の項目には執筆料、印税収入に加えてウィンザーチェアーの販売が計上されるようになった。

 自然と向き合って自然に働きかけて何物かを得ることが人の働きである。寒村の暮らしは畑仕事が主なものになる。よほどの働きをしなければ得られるものは少ない。働くと自分の時間は極小になる。働き者でなければ森の生活はできない。都会と組織が嫌で森の生活に逃げ出しても怠け者は生きていけない。森では怠けられない。

長野県南佐久郡川上村

 長野県南佐久郡川上村は私にとっては遠い地である。同時に八ヶ岳が広がってみえる特別のところである。東京の夏にうだされて夜のうちに北八ヶ岳登山口の松原湖駅に行って夜明かしした小海線の沿線でもある。自転車に乗って旅行していたころには韮崎から峠を越えて行くところであった。釣りが好きになってからはイワナを釣る渓流がある場所に変わった。いまでは八ヶ岳をレタス畑越しにみるところになった。

川上村の暮らしと経済

 川上村(かわかみむら)は長野県南佐久郡にある千曲川の最上流部に位置する村だ。何時しか夏のレタス産地になった。平成27年度国勢調査では川上村の就業者の76.3%が第一次産業に従事していた。村は秩父多摩甲斐国立公園に含まれる。川上村に奥秩父の印象が付いて回るのはこのためだ。川上村の東部と南部は奥秩父山塊の主脈に属する。西部は八ヶ岳の広大な裾野(野辺山高原)である。村域全体が1,000mを超える。川上村役場は標高1,185mにあり市町村としては最も標高の高い場所にある。寒冷地農業が研究され川上村と周辺村域は高冷地農業が営まれるようになって野菜の端境期を上手く埋めている。レタス生産が主力で一戸あたりの年商は2,500万円ほどである。平成27年度の川上村の世帯数1,205戸であり、人口総数は4,607人、うち男2,731人、女1,876人である。昭和40年度の世帯数1,170戸、人口総数5,176人とあまり変わりがない。稼げる働き口があれば人口は減らないことを示している。

川上村の気候とレタス栽培

 川上村の8月の日平均気温は19.5℃であり札幌市の20.5℃よりも低い。降水は夏季の前後、梅雨と秋雨の時期にまとまっている。日照時間も長い。7月の平均気温は21.7℃、最高気温は27.6℃。8月平均気温は19.7℃、最高気温は24.2℃。高冷地の野菜栽培は夏季集中型である。夜明けから日暮れまで、そして夜間作業で収穫し出荷する。近年は外国人研修制度によって中国人が農作業に従事していたがコロナ禍で足止めをくった。農作業には多用途のトラクターが使われているが今後はさらなる農業の機械化を推進することになる。

縄文期に人が暮らしていた川上村

 この川上村の歴史を概観する。八ヶ岳山麓や中央高地は縄文時代の遺跡が数多く分布する地域だ。川上村にも後期旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡が分布する。馬場平遺跡や大深山遺跡がある。大深山遺跡は日本で一番標高の高い場所に立地する集落遺跡だ。弥生時代の遺跡は少ない。古墳時代から奈良時代のものとされる遺跡はない。平安時代の遺跡はある。戦国時代に信濃は甲斐国の武田氏の領国となり、武田領国においては甲斐本国の黒川金山(山梨県甲州市)をはじめ金鉱山が開発された。川上村でも梓久保金山遺跡では金鉱山の採掘・精錬用具や金粒付着土器が出土している。金の採掘や精錬作業が行われていた痕跡だ。近世に信濃国では小藩が分立するが、川上村は幕府直轄領として八か村があった。1889年(明治22年)の町村制の施行により居倉村、原村、御所平村、大深山村、秋山村、梓山村、川端下村、大明村の一部である樋沢の区域をもって川上村が発足し現在に至る。

川上村の象徴となったレタスと川上犬

 川上村は交通不便なところであったために在来の日本の犬が原始に近いまま残されていた。この地域からでた十国犬は有名である。長野県によって天然記念物に指定されている川上犬は十国犬の風貌を残している。川上犬はレタスと重ね合わせて川上村マスコットキャラクター「レタ助」になっている。川上村川端下には田渕義雄さんが住んでいた。出版社に勤務していた編集者でナチュラリストである。「寒山の森から―憧れの山暮しをしてみれば」という本を出していて私には羨望の人であった。田渕義雄さんはいつしかそこそこの規模でレタス畑を運営し、ウインザーチェア方式のロッキングチェアなどをつくる工房の主にもなっていた。

ウインザーチェアのロッキングチェア

 私は快適にパソコン業務をするために椅子にこだわる。こだわるというよりも椅子と机とモニターの快適な位置を探して奮戦している。机を物色する日々がつづき、ウインザーチェアのロッキングチェアを手に入れては喜び、これですべてが足りることがないので、別の椅子も用意する。ぐるぐる回りの関係が果てしなく続く。田渕義雄さんがウインザーチェア製作に取り組む心情がわかる。どんなものでも自作しようとするナチュラリストの行動は椅子つくりをすると達人の域に至った。

頭に引っかかって離れない物事の解決を夢見る

 私の望みは何か。子供のころから特に学生時代に考えていて解決や結論がでていない事柄を引き続いて思索していくことである。お金に汲々とし、時間を作り出すこと苦労している身ではなかなか叶わない願いだ。「森の生活-ウォールデン-」のソローは二年二カ月の帳簿を残した。農業の収支計算簿である。身を粉にして働いても残るものは少ない。田渕義雄さんの田舎暮らし「寒山の森から」は都会の人々に刺激を与えた。そのことだけで田渕義雄さんは英雄になったのだが引き続いて自然の暮らしの図書をだし、アウトドア雑誌の常連執筆者として活躍する。人生最大の暇つぶしと言いながら自分が使うものは自分でつくっていた田渕義雄さんは、頼まれてロッキングチェアなどのウインザーチェアーをつくるようになった。労働を金銭に換算してはかる考えがあってはできないことだ。

田舎暮らしに憧れても田舎に行くと「ぐうたら」を決め込むのが普通の人だ

 田渕義雄さんの寒山の森の暮らしを知ると私などは暇をつくっては本を読み、時々ものを考えて、備忘録の短い文章をしたためて、喜んでいればいいのだ。大それたことを考えてはならないと自分を戒める。働き終えて八ヶ岳山麓で暮らす知人は甲斐駒ヶ岳がみえる日差し豊かな部屋に好みのオーディオを据えてモーツァルトを聴いているのだろうな。真空管アンプのチリチリした音がよいとか、スピーカーはこれでなければいけないとか、アンプはやはりトランスが重く大きなものに限るとか、ぐるぐる回りの思考をしていることが想像できる。これなどは田渕義雄さんの反対側にいるぐーたらな仕合わせ者である。人はみな後者でありたがる。

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最終更新日  2020年07月04日 01時13分54秒
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