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カテゴリ:エッセー
ハレー彗星の発見者ハレーとイアイザック・ニュートン
ハレー彗星の発見者であるエドモンド・ハレーがアイザック・ニュートンを尋ねたのはニュートン41歳のとき。ハレーはまだ20代であった。太陽系の惑星が太陽の引力の影響下で描く軌道の計算をニュートンならできると考えた。引力が距離の二乗に反比例するときに描く軌道をニュートンに聞いた。ニュートンは即座に楕円と答えた。 ハレー彗星の軌道計算の基礎理論はニュートンの力に依存 ハレー彗星は、75.32年周期で地球に接近する短周期彗星だ。地球から肉眼で見える唯一の周期彗星であり、人によっては唯一生涯で2度見ることができる。ハレー彗星は周期彗星の中で最初に知られた彗星だ。1986年2月に回帰した。2061年夏に出現する。ハレー彗星を発見したのはエドモンド・ハレー。ニュートンのプリンピキアに導かれてハレーは1705年にハレー彗星を含め24種の彗星の軌道を計算して「ynopsis of the Astronomy of Comets」(彗星天文学概論)に記述した。1682年に発見したハレー彗星の軌道計算をするためにニュートンに助力を求めた。軌道計算の結果、ハレー彗星はペトルス・アピアヌスが1531年に観測した彗星とヨハネス・ケプラーが1607年に観測した彗星と同一のものであった。ハレー彗星は、彗星が木星などの惑星の重力がハレー彗星の軌道に影響しても周回運動は継続されるとハレーは考えた。 ニュートンのプリンキピア「自然哲学の数学的原理」執筆の動機付け ニュートンは引力に関係する力学体系を理論づけていたが論文にはまとめてはいなかった。ニュートンは錬金術に熱中し、また聖書研究に没頭していた。錬金術と物理学を含む科学は近縁であった。神学はケンブリッジ大学の基礎になっていてニュートンは他のフェローと同様に神職に就くことが義務付けられていた。ニュートンは特例によって神職に就くことを免れた。物理、数学、天文学の知識が秀でていたことによる。ニュートンにとっては物理、数学、天文学は神がつくった世界を追究をすることであった。ニュートンにとっての学問は、物理、数学、天文学の知識を総動員して神がつくった真理を解き明かすことであった。ニュートン力学はニュートン自身には神がつくった世界の解明のためにつくられた理論である。ハレーがニュートンに会ってから一年半後の1686年にニュートンはプリンキピアこと「自然哲学の数学的原理」を脱稿し王立協会に提出した。ハレーは校正を引き受け、また刊行費用を負担した。プリンキピア誕生の経緯である。神がつくった天と地をニュートンは数学によって解明し体系付けたと考えた。ニュートンには惑星の運動は神の思し召しなのだ。 数学、力学、天文学の三分野を一つの統一した理論としての「自然哲学の数学的原理」 ニュートンの時代までに数学ではフェルマーの微分法、ワリスの積分法、バローによる微分法と積分法の統一などの成果があった。ガリレオ・ガリレーは力学運動の三法則のうち二つを解明していた。天文学ではケプラーが天体の運動法則を解き明かしていた。ニュートンは数学、力学、天文学の三分野を一つの統一した理論として編み上げた。これが「自然哲学の数学的原理」ことプリンキピアである。 ロンドンのサロン コーヒーハウスでの物理学者たちの交流 ハレー彗星の発見者であるエドモンド・ハレーはロンドンの文人、学者、政治家のたまり場であるコヒーハウスでオックスフォード大学の同僚の物理学者と交流していた。フックやレンと話しているうちに引力が距離の二乗に反比例するときに描く軌道が楕円であることを証明できるのはニュートンだけであることに確信をもつ。ハレーはロンドンから128㎞(79.5マイル)離れたケンブリッジ大学にニュートンを訪ねて、引力が距離の二乗に反比例するときに描く軌道はと、問うた。ニュートンの回答は楕円。ニュートンは楕円軌道の運動を証明するために執筆作業にかかる。このときニュートンは計算した書類を探すために机の上の書類をかき回したのだ、と伝えられている。探すふりをしたのだ。ニュートン物理学の体系の書となった「自然哲学の数学的原理」(プリンキピア)の誕生にまつわる伝承だ。エドモンド・ハレーなど若き科学者たちのコーヒーハウスでの議論がめぐりめぐってニュートンの力学書にとなった。 コーヒーハウスに集うロバート・フックとサー・クリストファー・マイケル・レン ロバート・フック ロバート・フック(Robert Hooke、1635年7月28日から1703年3月3日)は、イギリスの自然哲学者、建築家、博物学者。王立協会フェロー。実験と理論の両面を通じて科学革命で重要な仕事をした。弾性に関する法則であるフックの法則で知られる。フックは生体の最小単位をcell(細胞)と名付けたことでも知られる。ロバート・フックはプロテクトレート時代にオックスフォード大学ウォドム・カレッジで学び、ジョン・ウィルキンズを中心に結成された王党派の一団に参加した。医学者トーマス・ウィリスや化学者ロバート・ボイルの助手をつとめ、ボイルが気体の法則を見出した実験に使った真空ポンプの製作を手伝った。最初期のグレゴリー式望遠鏡を作って火星や木星が自転していることを観察し、化石を研究して進化論を唱えた初期の一人となった。光の屈折現象を研究して波動説に到達。物体を熱すると膨張すること、空気が比較的まばらな微粒子でできていることなどを示唆した。重力が距離の逆2乗の法則に従うこと、惑星がその法則で運行していることにフックは気づいていた。フックの科学的研究は1662年に就任した王立協会の実験監督として行ったものとロバート・ボイルの助手時代に行ったものである。フックの法則は、力学や物理学における構成則の一種で、バネの伸びと弾性限度以下の荷重は正比例するというもので、弾性の法則とも言う。フックの法則が成り立つ物質が線形弾性体またはフック弾性体だ。 サー・クリストファー・マイケル・レン サー・クリストファー・マイケル・レン(Sir Christopher Michael Wren, 1632年10月20日から1723年2月25日)はイギリスの建築家、天文学者。イギリス王室の建築家であり、ロンドン大火からの復興を行い、バロック建築をイギリスに取り入れた人物、として知られている。同名の父クリストファー・レンはウィンザーの首席司祭で、伯父のマシュー・レンはイーリーの司教で、2人とも高教会派の中心人物であった。サー・クリストファー・マイケル・レンは、ウエストミンスター・スクールで教育を受け、15歳のときには外科医学校で解剖学の教師をしばらく務め、その後オックスフォードに赴き、のちに王立協会を創設する人々と交流。レンは、その後に数学者として活動する。ニュートンはレンをもっとも優秀な幾何学者であると考えていた。1657年にはロンドン大学、1661年にはオックスフォード大学に戻り25歳で天文学教授に就任。図学とくに遠近画法の科学的研究やイタリア人建築家ベルニーニなどの美学をもとに幾何学を研究テーマにしていたことから、建築や都市計画を自身の研究の応用分野として活動した。小惑星(3062)のレンは、サー・クリストファー・マイケル・レンの功績を称えて命名された。1981年から1996年にかけて用いられた50UKポンド紙幣にサー・クリストファー・マイケル・レンの肖像が描かれている。 エドモンド・ハレーとアイザック・ニュートン エドモンド・ハレーは1676年にオックスフォード大学を卒業、後にオックスフォード大学の修士号を取得し、王立協会フェローに推薦される。グリニッジ天文台長に就任すると22年の長きにわたってその職にあった。エドモンド・ハレーはケプラーの惑星運動の法則を証明しようとしていた。ニュートンがこの問題を解いてはいるが未発表であることを知る。1684年8月にハレーはケンブリッジ大学にアイザック・ニュートンを訪ねた。エドモンド・ハレーはニュートンに論文にまとめるように熱心に話す。ニュートンの「自然哲学の数学的諸原理」(プリンキピア)執筆はハレーの励ましによるものだった。励ましというよりも人類の科学の発展のための世紀のお願いと言ってよい。出版を確約した王立協会であったが資金難に見舞われたために約束を破ることになった。出版経費はエドモンド・ハレーが負担した。文章の校正作業もハレーが請け負った。このようにしてニュートンのプリンキピアが出版された。エドモンド・ハレーは1656年10月29日生まれのイギリスの天文学者、地球物理学者、数学者、気象学者、物理学者だ。エドモンド・ハレーは、ハレー彗星の軌道計算を初め多くの業績を残している。 エドモンド・ハレーは、1718年には恒星の位置測定データを古代ギリシャ時代の観測記録と比較して、それまで不動であると考えられていた恒星の固有運動を発見している。グリニッジ天文台長(王室天文官)1720年になったハレーは1742年1月14日、85歳でに没するまでの22年間、台長職にあった。 交通事故報道の背後にある警察庁の意思と国家権力のジャーナリズム支配 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年09月22日 00時00分07秒
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