|
カテゴリ:エッセー
長野県南佐久郡南牧村の野辺山高原の山梨の木 1970年に学生であった者の青春の記-その8- 執筆 森龍之(もりたつゆき) GHQによる岸信介氏と賀屋興宣氏の釈放と日本の米国支配 賀屋興宣は東条英機内閣の閣僚であったためにのA級戦犯として終身刑の判決を受けていた。岸信介と児玉誉士夫はともにA級戦犯に指定されていた。東条英機の絞首刑のあった翌日に岸信介はGHQによって釈放された。岸信介と同時に児玉誉士夫が釈放され、賀屋興宣は間もなく釈放された。米国は岸信介を日本の総理大臣にすることを目論んでいた。釈放と米国への忠誠が引き換えになっていたことを宇沢弘文が明かす。 賀屋興宣は太平洋戦争開戦時の東条内閣大蔵大臣 賀屋興宣は、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時の東条内閣で大蔵大臣として戦時経済を担当した。賀屋興宣は、東郷茂徳外務大臣とともに米英に対する開戦には反対だった。岸信介は東条英機内閣で商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣として軍需省の次官を兼任する。岸信介と賀屋興宣のGHQによる釈放とその後の日本の米国支配との関係を暴くのが宇沢弘文だ。岸信介の釈放につづいて、A級戦犯に指定され終身刑の判決を受けていた賀屋興宣を釈放しGHQによる戦後日本支配構想の核心にこの二人を据えた。 東京大学法学部と学部内反共組織 東京大学では岸信介がそうであったのだが、法学部において反共の組織をつくっていて、現代でも公安や警察と関係している。人をこうした組織に送り込む。現代においてもこの体制が残っていて保守系の内閣に限らず革新系の内閣でもこの系列の官僚を使っている。権力機構とはどういうものか知る良い事例だ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月26日 00時00分17秒
コメント(0) | コメントを書く
[エッセー] カテゴリの最新記事
|
|