新聞記者の冤罪 死刑追及の旅
新聞記者の冤罪/死刑追及の旅【電子書籍】[ 前坂俊之 ] 本書はただ死刑廃止を声高に叫んでいるのではなく、緻密な取材によって著者が死刑廃止の考えに傾いていく過程がよくわかるものである。 極端な死刑廃止論は冤罪で無罪のものを死刑により殺してしまうと言う論理が働くのであるけれども、著者はただただ今までの冤罪を挙げつらうのではなく、現実に殺人を犯しながら他人に罪を擦り付けたものと共に生活をすることを端緒として、冤罪それから死刑廃止について考察するようになったものである。 従って取材の幅も非常に広く、例えば、 矯正不可能な人間がいるんではないですか。 死刑存置論者はそう言ってますけど 「何とか直す方法はありますよ。一年、一〇年、二〇年かかっても、生まれつきそうではないんですから……」 玉井氏は一つのエピソードを話してくれた。 ある死刑囚の執行の時の話である。 「いよいよ、死刑執行になり、刑場に入った。〝何か言い残すことはないか〟と私(玉井氏)が聞いた。〝ぜひ、一つ聞いてほしい〟とその死刑囚は言った。〝検事が私に死刑の求刑をした時、何とかここを脱走して、この検事の一家を皆殺しにして、死のうと思った。 しかし、今、考えてみると、交通事故や急病で突然、誰れにも会わず死ぬ人は多い。私はそうでなく、家族にも会えて、言いたいことを十分言えて、こんな有難いことはない。 これも検事さんのおかげだ。もし、検事が死刑以外の求刑をしていたら、私はまた出所して悪いことをしたかも知れない。こうやって、まともになって満足して死んでいけるのは検事さんのおかげだ。この検事さんにぜひ私からのお礼を伝えて下さい〟と言い残して、執行されました。ほとんど、このような心境の人ばかりですよ」というように死刑執行をする刑務官の側からの取材もきちんとしているわけである。 一般論として先進各国の死刑廃止の状況を述べる例が多いのであるけれども、欧米各国はともかくアジアの諸国は未だに死刑を存置しているということももれなく書いており、一方的な論陣を張らない姿勢に私は感銘を受けた。 ところで死刑執行の際の状況であるが、 これが死刑執行の言い渡しなのだ。すでに古川教誨師の十二礼の読経が始まっている。 流れるような、沈むような、そして惜しむようなリズムの波に乗ってOも大きな声で唱和してゆく。 引続き「白骨の御文章」が授けられる。 人生の無常が人の心をさす。 「今日のような修業を積めたのはひとえに所長をはじめ皆さんの理解によるもので、今日喜んで死出の旅路につけることは本当にうれしいことです」(まるで人々にお説教するような安らかな口調)。 その後で彼の辞世の句が教誨師から披露された。 「あす執行下剤をのみて春の宵」 「何くそと思えど悲し雪折れの竹」 所長からはなむけのピース一本。 心ゆくまで吸いこんだ煙を狭い仏間にただよわせながら「兵隊に行っていたとき、プカプカふかすので機関車というあだ名をつけられましたよ」と笑う。というものらしい。 この状況を読めば死刑囚であっても一人の人間でありひとつの大きな命を持ったものであることを考えさせられる。 現時点で日本の死刑については今すぐになくなるものではないけれども、本書のように死刑についてきちんと考えさせるような機会があってもいいのではなかろうか。