カテゴリ:江戸・東京
45年前、火炎ビンと放水銃が錯綜した東大安田講堂。1970年代の大学紛争と安保闘争の波を被ってきた団塊世代にとって、安田講堂は特別の想いを掻きたてる建物である。1691年1月19日にバリケード強制解除後、約20年廃墟同然であったが、昭和63年に修復工事が成され今日に至る。 安田講堂は関東大震災による中断を経て、大正14年(1925年)多くの努力の末に完成した。高さ39.7m、7階建てのタワーを中心にしたシンメトリックで、安定感のある建物。収容人数が1,144名の大講堂は、東大紛争時に集会・デモのエネルギーが充満した砦であった。 歴史的事件となった安田講堂事件は、始めは医療制度に不満を持つ学生との交渉トラブルだった言う。紛争は1年後には、8,500人の機動隊導入と371名の学生逮捕者を出すまでにエスカレートした。以後、全共闘・ゲバ棒・ヘルメットという言葉が「流行」した。 オープンキャンパスの構内には、ゴシック建築の建物がずらりと並ぶ。建物が無い処に三四郎池がある。この池も前田家の庭園跡。火除け地と防火用水池の役割もあった。昼食は安田講堂地下の生協食堂を利用した。名物の赤門ラーメンと男爵芋コロッケとで計490円。ご馳走さまでした。 写真-1 左右対照の東大安田講堂。耐震工事に取り掛かっていた。 写真-2 医学部2号館(本館)も左右対象。半円アーチ数は奇数に配列。 写真-3 ゴシック建築のビル街のようだ。総合図書館前と文学部3号館に続く通称「合格通り」。 写真-4 オープンスペースの三四郎池。防火上の価値があるとされる。 写真-5 安田講堂地下の食堂で昼食。休日なので一般客がほとんど・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014年02月02日 14時37分23秒
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