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カテゴリ:◆寸評(社会主義)
レーニン「社会主義と戦争」~2~ ◆社会民主主義政党は、たとえどんなにわずかでも合法的に大衆を組織し社会主義を宣伝する機会があるならば、いかなるばあい、いかなる事情のもとでも、それを放棄してはならない。しかし同時に、合法性に奴隷のように屈服している手合とは、きっぱりと手をきらなければならない。 「ブルジョア諸君、どうぞおさきに射ちたまえ」とエンゲルスは書いているが、これはまさしく国内戦のこと、ブルジョアジーが法律に違反して行動するようになったのちにはわれわれのがわも法律のわくにしばられることなしに行動する必要のあることを、ほのめかしているのである。 危機に直面したばあい、ブルジョアジーは、あらゆる国で、もっとも自由な国においてさえも、法律をやぶっていること、また革命的な闘争手段を宣伝し、議論し、評価し、準備するための非合法組織をつくらずに大衆を革命にみちびくことは不可能なことが、いまやあきらかになった。(97~98) ◆反動的な戦争においては、革命的な階級は自国の政府の敗北をのぞまないわけにはいかない。また、自国の政府が軍事的に失敗すれば、それにともなって政府を打倒することがたやすくなる点を見のがすわけにもゆかない。 諸政府のはじめた戦争はかならず諸政府間の戦争として終りをつげるものと信じ、かつそれだけをのぞむブルジョアだけがすべての交戦国の社会主義者は、それぞれみな「自国の」政府の敗北をのぞんで、それを大衆にうったえるべきであるという考えを、わらうべきもの、またはばからしいものと思っているのだ。 社会主義者のこのような行動は、「わらうべきもの」であるどころか、これこそはまさに、階級意識にめざめたあらゆる労働者の胸にひめられた考えと一致するものであり、帝国主義戦争を国内戦にかえようとするわれわれの活動方針にそうものであろう。(98~99) ◆社会主義者は、「自国の」政府を革命によって打倒するほかには大衆にとってすくわれる道のないこと、現在の戦争で政府がこまっている状態をまさしく政府打倒の目的のために利用する必要のあることを、大衆に説明しなければならない。(99) ◆平和をのぞむ大衆の気分は、しばしばそれがきっかけとなって抗議と憤りをまきおこし、またそれによって大衆が戦争の反動的な性質を知るようになる過程をあらわしている。大衆のこの気持を利用すること-これがすべての社会主義者のなすべきことである。社会民主主義者は、この気分に根ざすいっさいの運動、いっさいのデモンストレーションには、もっとも熱心に参加する。(99~100) ◆マルクス主義は平和主義ではない。戦争が一刻もはやくおわることをめざしてたたかうのは、もちろんたいせつなことではある。しかし、「平和」の要求は、革命的な闘争への呼びかけをともなってこそ、はじめてプロレタリア的な意義をもつものとなる。一連の革命なしには、いわゆる民主的な平和もただ俗物的な夢にすぎない。(109) 平和の問題(1924年) ◆平和のスローガンは、平和の一定の諸条件との関連において、提起することもできるし、また一定の平和のための闘争としてでなしに、平和一般のための闘争として、いっさいの諸条件をぬきにして、提起することもできる。あきらかに、後者のばあいには、われわれの眼前にあるものは、非社会主義的なスローガンであるばかりではない。 さらにそれは、一般にまったく無意味・無内容のスローガンでもある。平和一般にたいしては、キッチナー、ジョッフル、ヒンデンブルクおよび血まみれのニコライにいたるまでのすべてのものが、無条件に賛成する。なぜなら、彼らのおのおのは、戦争の終結をのぞんでいるからである、-問題はまさに、おのおのが「自」国の利益になるような帝国主義的な(すなわち、略奪的な、また他民族を抑圧する)平和条件を提起しているところにある。 スローガンは、宣伝および煽動において、大衆に社会主義と資本主義(帝国主義)とのあいだの和解しがたい相違を説明するために提起されるべきであって、まるきり相違したことがらを「統一」するような片言によって二つの敵対階級と二つの敵対政策を和解させるために提起されるべきではない。(123~124) ◆労働者の意識的な前衛のスローガンと、大衆の自然発生的な要求とは、別のものである。平和への欲求は、戦争には「民族解放的」な目的があるのだ、戦争は「祖国擁護」のためだ、などというブルジョア的な虚構や、その他、資本家階級による庶民の欺瞞にたいして人々が幻滅を感じはじめたことの、もっとも重要な兆候の一つである。社会主義者は、この兆候に最大の注意をもってのぞまなければならない。大衆の気分を平和のために利用することに、あらゆる努力をかたむけなければならない。(126) ◆平和のスローガンを承認して、それをくりかえすならば、それは「無力な雄弁家のもったいぶり」に油を注ぐことである。これは、今日の政府、今日の支配階級が、一連の革命によって「おしえられる」ことなしに、民主主義と労働者階級をいくらかでも満足させる平和をあたえうるかのような幻想をもって、人民を欺瞞することであろう。 この欺瞞ほど有害なものはない。この欺瞞ほど労働者の目をふさぐものはなく、この欺瞞ほど資本主義と社会主義との矛盾が深刻でないという欺瞞的な思想を労働者にふきこむものはなく、またこの欺瞞ほど資本主義的奴隷制を美化するものはない。 いな、われわれは、大衆が平和から期待している幸福は一連の革命なしに不可能であることを大衆に説明するために、大衆の気分を平和のために利用しなければならない。(126) ~3へ~ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.05.16 11:21:09
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