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カテゴリ:宗谷(そうや)地域
ヽ(´―`)ノSOYA♪
日本の“てっぺん”からこんにちは。 宗谷総合振興局地域政策課のマガモです 最北端!宗谷の「ショク×タビ」Facebookページからお届けします 【稚内公園『九人の乙女の碑』 ~ 樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇】 みなさん、こんにちは!宗谷総合振興局商工労働観光課です。 今月15日、日本は終戦から72年を迎えました。 今回は、戦争に関係する宗谷の歴史スポットを紹介いたします。 市内の高台に位置し、市街地を一望できる稚内公園。 晴れた日には眼下に青一色の海が広がり、多くの観光客で賑わいを見せます。 そんな観光地の一画に『九人の乙女の碑』があります。 この碑は、終戦後に樺太(現在のサハリン)の郵便局で殉職した電話交換手の女性9人の霊を慰めるために建てられました。ここで少しだけ当時のエピソードを、、、 北海道の北に広がる大地、サハリン。 かつて「樺太」と呼ばれ、日本領である樺太南部にはおよそ40万人の日本人が暮らしていました。真岡町(現ホルムスク)もその1つ。樺太西海岸南部に位置し、北海道との定期船も絶えない平和な港町でした。 ところが、終戦直前の昭和20年8月9日の朝、ソ連軍による進撃が開始され、日本軍はこの地の守りを固めようと必死に努力を続けるも、戦況は悪化していきました。 各地で島民の緊急疎開が開始されるなか、真岡町の郵便局で国防の電話交換業務を担っていた女性局員は、その使命感・責任感から多くが疎開を断り、交換業務に従事しました。 迎えた8月20日、ついに真岡町にもソ連軍が上陸し、市街地は戦火に包まれました。戦火に巻き込まれながらも、彼女たちは緊急を告げる電話回線を守り、最期まで職務を遂行しつづけました。 そして最後の通信を終えた後、9名が自ら若い命を経ちました。 その後も戦闘は続き、終戦から7日目に停戦命令が出され、樺太における地上戦は終わりました。この樺太戦で命を落とした日本人は5千人とも6千人とも言われています。 戦後、最期まで業務を遂行し命を落とした電話交換手9名の功績を永遠に讃えるために『九人の乙女の碑』が稚内公園内に建立されました。 稚内観光の際にお立ち寄りいただき、樺太の歴史に触れてみてはいかがでしょうか? また、今月20日午前10時から開催される「第55回氷雪の門・九人の乙女の碑平和記念祭」(場所:稚内市総合文化センター)では、今回紹介した内容に関係する舞台『九人の乙女~もうひとつの真実』特別講演が行われますので、皆様ぜひ足をお運びください。 ▼メールマガジン「月刊そうやマガジン」に配信登録してみませんか?? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017.08.18 07:46:53
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