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殿上人日記

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2017年08月09日
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カテゴリ:旅のいろいろ


永遠のゼロで宮部が、最後に飛び立ったのが
大隅半島にある日本海軍航空隊の鹿屋特攻
基地だった。この基地から南方へと飛び立った
特攻隊員の数は908名にものぼり、数ある特攻
基地の中で飛び抜けて多い人数であった




飛行機による特攻隊は、前に紹介した薩摩
半島の知覧のように日本陸軍のものと別に
日本海軍のもあり神風特攻隊という。その
名の由来は、蒙古襲来時に神風が吹いて
追っ払ったという伝承に基づいてである
カミカゼ、もしくはシンプウとも言ったらしい




日本海軍の神風特攻隊において一番
使われたのが零戦。零式艦上戦闘機だ
宮崎アニメでは設計者を主人公にした
「風立ちぬ」もあれば、永遠のゼロなど
様々なメディアでも取り扱われる機体だ




開発者は三菱重工業であるが、日本海軍
航空隊の主力となって、生産数が多いので
中島飛行機も半分近くを作っていたそうだ
生産数は1万機にものぼったそうだ。当時の
軍用機は採用年の皇紀(神武天皇紀元)
下二ケタを冠する決まりで、昭和15年は
皇紀2600年なので00から零戦となった




連合軍が付けたコードネームは、ジークだが
将兵らはゼロとかゼロファイターと呼んでいた
昭和14年に試作一号機が完成し、4月1日に
岐阜県の陸軍各務原飛行場で初飛行に成功
翌15年(皇紀2600年)に採用をされると、7月
大陸戦線にて零戦11機が配備され、夏には
実戦にも使われるようになった




太平洋戦争の中期あたりまでは、零戦の
卓越した性能が勝り、敵機を撃退し無敵
とも言われるほどであった

>アメリカ戦略空軍司令部作戦部長補佐代理
>ジョン・N・ユーバンク准将は「ニューギニアや
>ラバウルで我々が遭遇した日本軍は、本当に
>熟練した操縦士だった




>我々は最優秀の敵と戦っているのだという
>ことを一時も疑ったことはなかった」と
>回想している (中略)登場時こそ高性能を
>誇った零戦であるが、後継機の開発が順調に
>進んだ陸軍に比べ、海軍は後継機の開発が
>うまくいかず、零戦は終戦まで主力機として
>使用され、性能でもアメリカやイギリスの
>新鋭機に敵わなくなった




>戦争中盤以降アメリカ軍は2,000馬力級エンジンを
>装備するF6FヘルキャットやF4Uコルセアなどの
>新型戦闘機を投入するようになっていったが、
>雷電や烈風など零戦の後継機の開発に遅れを
>とった日本海軍は零戦の僅かな性能向上型で
>これらに対抗せざるを得なかった。

          ウィキペディアより転載しました



  
そして飛行戦を行っていた零戦も、戦争
末期には、熟練したベテランパイロットも
戦死し、若い命を乗せて敵艦に突っ込む
特攻兵器としての運命をたどる事となった
この零戦の機体は、1992年に引き揚げられた
中島製ニ一型と五ニ型丙の二機の残骸から
復元した機体で、機体の強度上の問題から
エンジンは取り外して展示されている




海上自衛隊鹿屋航空基地の敷地内に
ある鹿屋航空基地資料館(無料)には
先程の零戦が展示され、これは撮影が
出来るが、特攻隊員の遺品などは撮影
禁止となっていた




旅から帰ってから知ったのだが、更に
屋外にも世界で唯一現存をするという
二式飛行艇もあったのだが、遠くから
見ただけだった。しまった、もっと近くに
いって、じっくり見ればよかった。やはり
旅の事前学習は必要だ




旧日本海軍が九七式飛行艇の後続として
昭和16年に初飛行、高い性能を持った
傑作機で、空の戦艦とも呼ばれたそうだ
通称は二式大艇、製造は川西飛行機だ
戦争後に米国が残存機の性能試験をして
その高性能ぶりに驚き、飛行艇技術では
日本は世界に勝利したと称賛した名機だ




聞けば聞くほど、もっとしっかりと見て
来ればよかったと思った。もう鹿屋に
行く機会もないだろうに・・・。なんて
事で、こちらは海上自衛隊の展示機
US-1A(おおとり)緊急飛行艇。さっきの
二式大艇の川西飛行機の後進である
新明和工業製だ




T-6テキサンのSNJ-5練習機はノース
アメリカン社のレシプロ高等練習機で
その形からカラーリングを施し、零戦や
九七式として映画で使用されていた




ビーチクラフトモデル18のSNB-4
(米国のビーチクラフト社)




ビーチクラフト社の設計で、富士重工
(旧中島飛行機)がライセンス生産を
したT34Aメンター。メンターとはよき
助言者、優れた指導者という意味だ
そうだ




ロッキード社のP2V-7対潜哨戒機
(後に川崎飛行機がライセンス生産も)
米軍の愛称はネプチューン(海神)で
海上自衛隊ではおおわしと呼んでいた




グラマン社の艦上対潜哨戒機S-2。愛称は
トラッカー(追跡者)。海上自衛隊にはMAP
(軍事無償援助)として、S2F-1が数十機
供与され、愛称はあおたか




ダグラスエアクラフト社のダグラスC-47は
世界初の旅客機で愛称はスカイトレイン
ノルマンディー上陸作戦など第二次世界
大戦で輸送機として活躍をした。イギリス軍に
供与された機体は、ダコタの名で運用された




アイゼンハワー大統領が「第2次世界
大戦を勝利に導いた3つの兵器は
ジープ・バズーカ砲(対戦車用)そして
ダコタ(C-47)輸送機である」と言った
らしい。海上自衛隊ではR4Dー6Q
まなづるといって戦後に導入された




てな感じで、戦中から戦後にかけての
軍用機をいろいろと見せて貰いましたが
悔しいのはやっぱ二式大艇を近くまで
行って、じっくりと見学をしなかった事




先程、資料館内は零戦のみ撮影可能で
遺品もあるので後は撮影禁止と言ったが
海上自衛隊のブースは写真が撮れる




鉄分一杯、気分もウキウキ。そうそう先週
日曜日に、中津川へ買い物に出かけたら
汽笛の音が。公園に屋外展示されている
D51のイベントで汽笛を鳴らしたみたいだ
郷愁を感じる良い音だ




南極の石もあった。海上自衛隊の
活動には、砕氷船「しらせ」による
南極観測の協力もある




昭和11年4月1日、日本海軍鹿屋海軍
航空隊が創設され戦争末期は菊水作戦
神風特攻隊の基地となり908名が出撃
平成27年まで海軍航空隊本部時代の
司令部庁舎も使われていたそうだ




昨年1月27日には、パプアニューギニアで
戦後に発見されアメリカ人コレクターが回収し
ロシアで修復した零戦が、日本人の所有と
なって里帰りプロジェクトを行い、この鹿屋の
空を飛んだそうだ




鹿屋を後にして錦江湾沿いに大隅半島を
北上すると正面に大きく見えてきたのが桜島
かつては名のごとく錦江湾に浮かぶ島で
あったのが、大正3(1914)年の噴火により
陸続きになった




今も頻繁に噴火活動をする活火山で
展望所の入り口には注意書きもあった




そして丈夫そうな避難所も、あちこちに




今回は南岳の麓、有村地区の大正溶岩原に
作られた展望所から桜島を眺めてみようと
思う。一面に広がる溶岩原もまた見もの
らしい




東西約12キロ、南北約10キロ、周囲約55キロ
面積約77kmの姶良カルデラの南縁に位置した
火山で、このカルデラの2.9万年前の巨大噴火の
3千年程後に誕生をした




有史以来30回以上の噴火が記録に残されており
特に文明、安永、大正の3回が大きな噴火だった
文明3(1471)9月12日の噴火(VEI5)では北岳の
北東山腹から、溶岩(北側の文明溶岩)が流出し
多数の死者があった




安永8(1779)年9月29日に大噴火が起き
火砕流も流れ、火山灰は長崎や江戸でも
降ったとか。一連の海底火山活動で燃島、
硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が出来
安永諸島と名付けられた




大正3(1914)年1月12日午前10時5分
桜島西側中腹から黒煙が上がり大音響と
ともに噴火が始まり、約1か月間にわたって
頻繁に噴火が繰り返された。更に午後6時
30分には噴火に伴いマグニチュード7.1の
桜島地震が発生し大きな被害があった




今もなお頻繁な噴火活動が続く桜島の
御岳は筑紫富士と呼ばれているそうで
筑紫は以前は九州を指していたそうだ
という訳で、本来なら鹿屋の屋外展示を
した飛行機の写真の時に書こうと思った
けど、ついつい飛行機の説明に終始
してしまったので




桜島の写真をバックに、鹿屋基地から出撃
した特攻隊の隊員の話を紹介したい。彼の
名前は石丸進一。昭和20年5月11日に
500キロの爆弾を抱えた零戦で、鹿屋
基地を飛び立ち、沖縄へと向かって出撃
消息を絶った




佐賀市で理髪業を営む家の五男に生まれた
石丸進一は、兄の藤吉の影響で野球を始め
送球派エースとなった。兄に続いて名古屋軍
(現在の中日ドラゴンズ)に昭和16年に入団し
持ち前の速球と、針の穴を通すほどの抜群の
制球力で大活躍をした




昭和18年10月12日の対大和戦では戦前
最後となるノーヒットノーランも達成をした
この年は20勝12敗、防御率1.15と前年以上の
好成績を収め、チームを2位まで躍進させた
兵役を逃れる為に、大学に籍を置いていたが
昭和19年春の学徒出陣で招集をされた




石丸は海軍飛行科を希望し、筑波海軍航空隊に
配属となり、昭和20年に神風特別攻撃隊に
志願して特攻隊員となった。出撃前に同僚の
本田耕一と、最後のキャッチボールを行って
従軍記者だった山岡荘八(作家)が審判を務め
「涙でよく見えなかった」という10球は全て
ストライクだったそうだ




>藤吉が最後に会った時は「敵艦に体当たりして
>轟沈(ごうちん)させる」と話す弟を、「そんなに
>死に急いでどうする!」と諭したという。「兄さん、
>そんなこと分かってるよ」――。それが石丸の答え
>だった。出撃前、鹿屋基地では戦友に「死にたくない、
>怖い」とも漏らした。兵舎の陰で泣いている姿も
>あった。22歳。死の恐怖と必死に闘っていた。


スポニチ記事  詳しくはこちらをお読み下さい↓

戦前最後のノーヒッター神風に散った22歳・石丸進一の在りし日



       平成28年11月16日に鹿児島県で撮影


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最終更新日  2017年08月09日 10時07分26秒
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