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殿上人日記

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2019年03月02日
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テーマ:海外旅行(7072)
カテゴリ:旅のいろいろ


​​昨春は韓国の釜山や慶州​​でのお花見旅行を
計画し、桜の開花具合が気になっていたが
今年もそろそろお花見旅行の予約をせねば
京都のホテルも、3月末から4月の週末は
もう満室だし、出来たら行った事がない所の
お花見もしてみたい




なんて事で、ネットであれこれと検索をして
国内旅行のお花見パックツアーで良いものを
見つけ予約をしました(2日後には満席!)
今年もまた、桜の咲き加減はどうだろうと
開花情報にやきもきしそうですが、どうやら
昨年同様に今年の開花も早くなりそうです




それまでには、1月下旬に娘と出かけた
2泊3日中国旅行の日記を終えなければ
ならないが。という訳で今回は2日目の
午後に「蘇州(そしゅう)」での、虎丘
観光といいつつ、その近所のいかにも蘇州
らしい町並みの散歩から




いかがでしょう。東洋のヴェニスとも例え
られる蘇州の風景は。いかにもそれらしい
です。本当なら水面を行きかう小さな船に
乗船をするとより楽しいのですが、時間も
少ない格安旅行は、橋の上から眺める位で




「蘇州」についてウィキペディアでは

>古くから長江の南に位置する、江南の
>主要都市として栄えてきた。春秋時代に
>呉の都が置かれ、呉文化圏の中心で
>あった。伝説によれば、諸樊がこの地を
>本拠と定め、諸樊の子孫の闔閭が呉の
>都として整備したと言われている。




>臥薪嘗胆、呉越同舟の舞台である。秦
>以後には会稽郡、後には同郡から分離
>した呉郡の役所が置かれた(同時に呉県の
>役所も設置された)。隋代に蘇州の名が
>始まったが、南朝最後の陳末の民衆反乱
>(589年)で町が破壊されて郡の役所
>なども他の町に移されており、




>本格的な再建は役所を蘇州に戻した
>唐の太宗時代以後のことになる。五代
>十国時代には呉越国の都となり、北宋の
>神宗時代に府(首都に准じる都市)への
>昇格に伴って平江府、元には平江路と
>呼ばれるようになった。




>この間、金の南宋遠征軍が平江府を攻撃
>して再度町は大規模な打撃を蒙った
>(1130年)が、南宋政府によって再建
>されている。元末の張士誠も呉王を称して
>蘇州に都した。明になると、蘇州府が
>置かれて以後は現在の蘇州という名称が
>固定化された。




>古くから中国の先進的な絹織物産地として
>経済的富裕な町であったが、南宋時代に
>付近で木綿栽培が広まると綿織物の分野
>でも屈指の生産を図るようになる。だが、
>アヘン戦争後の上海開港にともなって
>その経済的地位をいくらか低下させた。




>江蘇省の省都は現在南京に置かれているが、
>歴史的に清代には江蘇布政使が蘇州に
>駐在し、太平天国は蘇州を蘇福省の首府
>とした。南京に都した中国国民党時代
>には蘇州に江蘇都督行署を置き、日本軍
>占領期にも江蘇省会であった。




>古来、北京と杭州を結ぶ京杭大運河が通る
>など、水運もよく利用されている。北部の
>太倉、常熟、張家港の長江沿いの地域には、
>水運を生かせる大規模工場が作られている。




>運河による水運が生活に溶け込んでいる
>ことから、旧市街地及び周辺の水郷地帯を
>含めて、「東洋のヴェニス」と呼ばれるが、
>ヴェネツィアよりも歴史は古い。




>環状の堀で囲まれた旧市街は新しいビル
>などは少なく、昔からの住宅が立ち並び、
>世界遺産の園林などが点在している。これに
>対し新市街は近代的なビルや高層住宅
>などが立ち並んでいる。郊外は工場地帯が
>点在している




白居易(白楽天)が蘇州長官時代に蘇州城と
虎丘をつなぐ為に作ったという​​山塘河という
小さな運河の沿道は、墓参りに行く人達で
賑わっていたそうだ。前に紹介をした
太湖石もあった




ここからはまだまだ先の、中心部に近い
​​山塘河の方は観光化された商店街として
賑わっているようだが、このあたりは普通に
住宅街みたいで、生活感たっぷり




お高くて時間がある旅行であれば、きっと
観光された繁華街の​​山塘河に行くんだとは
思うけど、格安旅行は虎丘のついでという
事で、こんな日常的な素顔な町並みの方が
かえって好みでもあるが




観光地じゃないから日当たりの良い所に
洗濯物だって干せちゃうし。と言いたい
ところだが、上海のど真ん中の超繁華街
だって、堂々と洗濯物を干していたし




こうゆう風景はイタリアなんかも観られるよう
だけど、欧米諸国は基本的に外には干さない
みたいだ。うちの旦那も外干しと窓開けが
好きだけど、花粉とか飛ぶ時期に、それって
どうなんだろうと私は思う




ネットで検索すると濡れている洗濯物は、余計
花粉が付きやすく、花粉が多く飛ぶような昼前
には、半乾きになっているのが好ましいそうで
早めに干し始めた方がいいみたいだ。そして
取り込むときにはしっかり振って、取り払う




さてさて中国のわんこは、都市部だろうが
結構、放し飼いもいるようで、小型犬で人に
危害を加えそうもないからなんだろうか




昨今は世界的に秋田犬が大人気だそうで
中国でも見るからに違う、ニセ秋田犬も
売られているそうだけど、私が見た限り
小さな洋犬ばかりだった




「江南地方」にはこういった水郷に、古い家が
たち並ぶ、水郷古鎮があちこちに残されており
雨後の筍のように高層ビルが並ぶ近未来な風景
とは、全く違った風景を見せてくれているのだ




江南とは、ウィキペディアによれば
>中華人民共和国(中国)の地名。もともと
>「江」なる語および漢字は普通名詞ではなく、
>中国の長江を指す固有名詞で、「江南」は
>その南岸地域全体を表わす。特に蘇州、無錫、
>嘉興など、下流域の南岸地域を指す。




>都市国家の興隆した青銅器時代には呉や越、
>楚などが興り、殷・周以来、文明の中心地を
>自認した華北の黄河やその支流の渭水や汾水、
>洛水流域の諸国と対峙した。(中略)秦による
>中華世界統一以降は華北に都した諸王朝の
>支配下に入ったが、




>華北がモンゴル高原から南下した遊牧民の
>王朝の支配下になると南下した華北人による
>亡命政権がたびたび樹立された。東晋や南朝
>諸王朝、南宋などがそれにあたる。江南の
>稲作地帯は南朝以降穀倉地帯として台頭し、
>やがて華北の農業生産を凌駕するように
>なった




>長江デルタ地域に上海、蘇州、杭州、南京と
>いった大都市が並び立ち、特に改革開放以降の
>中国においては、経済的一大中心地となって
>いる。

このように北京など中国北部とは、あい入れない
独立的な地域であった江南を、京杭大運河が
結ぶ存在となった。ウィキペディアによると




>西晋の滅亡以後、中国は300年近い年月に
>わたって南北に分裂していた。南北がなかなか
>統一されない原因として、淮水・長江の間に
>網の目状に走る小河川が進軍の足を鈍らせる
>ことにあり、曹操が敗北した赤壁の戦い・
>苻堅が敗北した淝水の戦いなども、北の騎馬
>軍団が南の水軍に敗れたという側面がある。




>北周から禅譲を受けて隋を建国した楊堅(文帝)
>は、この問題を解決するために587年に淮水と
>長江を結ぶ邗溝(かんこう)を開鑿し、589年に
>陳を滅ぼして、南北を統一した。604年に二代
>皇帝煬帝が即位し、翌年より再び大運河の工事が
>始まる。




>完成は610年のことで、その総延長は2500キロ
>メートルを越える。通済渠の工事には100万人の
>民衆が動員され、女性までも徴発されて5か月で
>完成した。これによって、後の人から暴政と非難
>され、更にこの運河を煬帝自身が竜船(皇帝が
>乗る船)に乗って遊覧し、




>煬帝が好んだ江南へと行幸するのに使ったこと
>から、「自らの好みのために民衆を徴発した」
>などとも言われるようになる。(中略)大運河が
>開通したことによって、経済面で優越していた
>南が政治・文化の中心地である北と連結され、
>中国全体の流通が増大した




>この運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用
>され、現在も中国の大動脈として利用されている。
>2014年の第38回世界遺産委員会でシルクロード
>などとともに世界遺産リストに登録された。



つい最近も、田辺誠一が京杭大運河を旅する番組を
していたので旅行後に見たところだ。↑




旅行行程には京杭大運河の散策とあって、ガイドから
説明も全くなく、さすがに大運河は広い!とか思って
いたが、↑の現地にあったマップを見ると、大運河
本体ではなく、そこにつながる蘇州の城を取りまく
お堀だったみたいだ。太湖ではなくて内湖の蠡湖に
続いて、なんかパーフェクトではなく




なんちゃって部分が残されているのは、中国風
というものだろうか? 他の業務に忙殺された
ガイドにほったらかされたんで、他の皆さんは
京杭大運河というものが、どのようなものである
かもわからぬままであったのだろう。もし説明を
されても。へ~~と生返事で終わったのかも




物資を運ぶのは目的の大運河なので、それぞれの
街に運河は引き込まれて、このような小さな川も
つながってはいるのだと思う。世界遺産となった
大運河は1011キロで2直轄市、6省、25の地級
市を流れているものだが、その構成資産として河道
27カ所を含み、関連の遺産も58カ所と膨大な
ものなんだとか




時代に取り残されたような、このような古い町
一部の保護地区や観光地をのぞいて、いつかは
なくなってしまうのだろうか。それ以前に実際に
見る事が出来たのは嬉しかった




先程のお濠に囲まれた城壁にたつのは、地図から
考えると、たぶん再建された相門が小さく見えた
唯一現存する蘇州の城門は、1351年に再建を
された盤門だけで「北で万里の雄大さを見、南で
盤門の麗しさを見る」と言われもした




こちらは「婁門」。これらの門が最初に作られた
のは春秋時代の呉の時代で、紀元前514年に
蘇州の城や城壁を設計&建設したのは伍子胥と
いい、もとは楚の人であったが権力争いに敗れ
呉に亡命し闔閭王の側近となり、孫武(孫子)を
世に出した人物であるそうだ




柏挙の戦いで呉国は隣国の楚を攻め込み、兵法の
天才の孫子と、楚の地理と内情を知る伍子胥により
連戦連勝し楚の都郢を陥落させたが、平王は既に
死んでいたので、伍子胥は王墓を暴いて、平王の
死体を300回に及び鞭を打って恨みを晴らした
後には「死者に鞭打つ(死屍に鞭むちうつ)」の
故事となった




その行為を友の申包胥に責められて、伍子胥は
「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施する
のみ」と答えたそうで、自分は年老いて時間も
ないというのにすべき事が多い。目的を果たす
には程遠いとの故事となった




時代は下り、無錫の蠡湖で触れた越の范蠡が
呉王夫差(闔閭の息子)に西施をおくりこみ
骨抜きにした頃、伍子胥からの諫言をよくは
思わない王から、不興を買った伍子胥は剣を
渡され自害するように命じられた。越が呉を
滅ぼすのを見られるよう自分の目をくり抜き
東南(越の方向)の城門の上に置けと、言い
残して亡くなった




本当に目だまが置かれたかはわからないが
程なく呉は越に滅ぼされ、夫差は顔に布を
覆って「私は伍子胥に合わせる顔がない」と
言い残して自決をしたそうだ。一説には
命日の5月5日の端午節は、伍子胥を記念を
する日になったとも言われる(戦国時代の
楚の屈原の命日の説も)




どちらにしても端午の節句は、江南地方で
活躍をした人物を偲ぶ日であったようだ
それが今は海を隔てた日本で、子供の日と
なっての祝日だ

蘇州の旅、まだまだ続きます




              平成31年1月27日に蘇州で撮影

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最終更新日  2019年03月03日 20時37分20秒
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