【18】0805台湾出張 -TAXIの運ちゃん(4)-
カレンコウ統治時代の行政区画の一つ。その頃は花蓮港廳で、現在は花蓮県です。昭和16年台湾常住戸口統計では(wikiより)総人口 153,785人 内訳 日本人 20,914人 台湾人 130,720人 朝鮮人 119人 その他 2,032人 とあり、日本人が約13%を占めていた地域です。「おてだんは台湾におったつばい。(私たちは台湾にいたのよ)カレンコウに、おったつばい。(カレンコウに、いたのよ)高砂族が日本の名前をつけて、日本語を上手に話しょったばい。(話していたよ)」夏休みに九州の田舎に帰ると、祖母がいつも言っていました。「カレンコウ」は祖父母と母が住んでいた所、と認識していました。小学校に上がってから「花蓮港」と書くと教わりました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *日本と台湾の関わりは、学校では勉強しませんでした。社会科では、その時代の話になると、決まって「時間がない」と1年が終了しました。自分で教科書を読むだけでしたが、台湾に関する記述は殆どなかったような気がします。中国や韓国については歴史問題としてニュースで度々取り上げられていました。しかし、台湾の事は殆ど聞かなかった気がします。子供だったし気に留めていなかったのもあると思います。学校教育の影響もあり現代史を深く勉強するのは無意識に避けていました。また祖母や母の話以外、知識もなく台湾に深い関心を持つ事は、ありませんでした。大学や留学の頃も、台湾人との接触は多かったですが相変わらず当時の事は関心がなく祖父母の話も彼らに一度もした事はありませんでした。状況が変わったのは2002年からの江蘇駐在です。台湾企業が続々大陸に進出しており、数多くの台湾人が大陸で駐在員として働いていました。台湾企業は、中国では外資企業の扱いでした。台湾人は中国を「大陸」と呼び、会社の「大陸人」を厳しく管理していました。多くの台資企業は、台湾人と大陸人を明らかに区別していました。台湾人は幹部、大陸人はワーカー。食堂すら分けていた会社も多くありました。高級な住居に入り、3ヶ月に一度は台湾に帰り。外国人駐在員と変わらないか、若しくはそれ以上の待遇の者も多くいました。ほぼ外国人でした。また彼ら自身も「大陸人とは違う」意識を持っていました。アクティブで、広く世界を見ている人が多かったです。日本や大陸だけでなく欧米にも目を向けており世間を知っている、と思いました。しかし 言語や習慣文化が共通している事で根底では、大陸により近い、と思われました。その為か、彼らは器用な社交をしました。ビジネスでは「中国人」として 生活面では「台湾人」として我々日本人には「かつての同胞」として、立場を使い分ける。何だ、この人たち・・・??(驚)手品を見ているようでした。特に大陸人に対しては、私がいつも感じている一定の距離が、彼らの間はグンと近いように思えました。そのタネを、知りたいと思いました。もう、日本人としての対中には限界を感じていました。「誠意」「信用」 or 「警戒」「口論」それしか出来ない事に疲れていました。しかし目の前の台湾人達は、余裕があります。彼らは一体、何者なのか・・・?そこからです。そこからやっと、本格的に勉強を始めたのです。「やるかやらぬか、自分次第の宿題」私は、やっと手をつける決意をしました。しかし動機は対中ビジネスに役に立ちそう。極めて俗っぽい理由からでしたが。台湾を勉強すると、統治時代や、その後の事が分かってきました。そして祖父母が、どんな立場だったのか引き揚げの状況や、現在の日台、台中関係を理解できました。正直、今更です。学生時や昔の事を思い返して、やっと合点がいく事も沢山ありました。そして知るにつれ、台湾に郷愁にも似たような思いを感じ始めました。それは当時、志高かった数多くの先人に対する畏敬の念とその中の一人に祖父がいたのだろうと、誇らしく思ったのでしょう。台湾勉強の理由が変わってきていました。台湾を知り、どう理解するかは。私が今後、日本人として、どうあるべきなのか大きく関係するような気がしていました。* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *親しく交流していた30~50歳代の台湾人達に祖父母の事を話した事があります。先ずは 「へぇ!」 と驚き、次に 「どこにいたのか」 と聞きます。私は 「花蓮港」 と回答します。しかし彼らは 「花蓮」 と受けます。あれ・・・?さりげなく「花蓮港」と言い直しても、また「花蓮」になる。彼らには「花蓮」の認識でした。当然と言えば当然ですが、当時の地名など分からないようでした。統治時代の事はお互い殆ど知らず、今の花蓮の状況を話し合って、それで終わりでした。カレンコウ は、通じない。「高砂族」も通じませんでした。「高砂族なんていないよ、いるのは高山族だよ?」戸惑ったように、言い直されました。カレンコウ も タカサゴゾク も通じない。ショックでした。何人かに試してみましたが、皆同じでした。今の台湾人には統治時代は、過去の事。。・・・そうか。自分に言い聞かせました。寂しさと、諦めが交錯していました。もう、過去の事。。日本の影響を、特別感じられるような出来事もありませんでした。江蘇から日本に戻った後、母と花蓮に行きました。母の戸籍の住所や、祖母が以前に書いてくれた手紙を元に縁(ゆかり)のありそうな場所を回りました。祖父の勤めていた農業試験場にも行きましたが、当時の記録や手がかり等、勿論、何も見つかりませんでした。遅かった・・・母を、農業試験場の前で撮影してあげて、人の少ない、物寂しい花蓮を後にしました。祖母も他界した後でした。当時の事を聞きたくても、もう聞けません。すみません申し訳ありません・・・!知るのが遅かった事を、深く後悔しました。祖父母の台湾時代を辿(たど)るのは、中途半端なまま止まってしまいました。情けない思いでした。しかし一方、考えを切り替えねばならないと思いました。私は今を生きている。やる事も沢山ある。生まれる前の事ばかりを考えるワケにもいかないじゃない。先ず、今を生きよう。もやもやした思いは、機会があれば考えよう。そう考えました。台湾人との会話には「花蓮」と「高山族」を使うようにしました。そして恐らく、もう忘れられたであろう「花蓮港(カレンコウ)」と「高砂族(タカサゴゾク)」は、封印しました。* * * * * * * * * * * * * * * * * *こんな事があって、私はオジサンが統治時代の経験者と知った時祖父母の話が出来るかもしれない、と思い胸が高鳴りました。しかし、カレンコウ がまた通じなくて寂しく思うのを避ける為に、「私の、お爺さんとお婆さんは統治の頃に、 ホアーリエン(花蓮)に住んでいたんです」敢えて 花 蓮 と言いました。それに対し、オジサンは「 カ レ ン コ ウ ですね」と言いました。カ レ ン コ ウそれを聞いた途端、洪水のように、とでも例えられるのか。「カレンコウ」の単語と共に封印していた様々な思いが、どっとあふれ出てきました。オジサンは穏やかに運転をしています。私一人、動揺している事は分かっていました。聞いて良いものか・・・聞いてどうなるものでも・・・迷いました。でも例えどんな答えでも・・・・・・受け止めれば、いいじゃないっ・・・!「あのっっ・・・日本の統治の時は、どんなだったですかっ・・・」言いました。声は、少し震えていたと思います。つづく。 ↑ よろしければ是非、一回押してやってください。。長い。。省ける所は省こうと思ったんですが。。流したくなかったので、細かく説明してしまいました。こんな事書いて良かったのだろうか、ただの自己満足の気もします。取り敢えず。読まれる方は疲れるかもしれませんが、すみません・・・(-。-;実は私も、書いてて疲れてます・・・><;扉ページ←「ホーム」をクリック!で【今日の 小日記 (何それ、と言わないで^^;)】やってます。私の日常の小ネタをチョコチョコ載せてます。そちらも是非!