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今が生死

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2023.11.11
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カテゴリ:感動したこと
ヒガンバナの葉の時期
いつもヒガンバナを見ると生命の不思議を感ずる。9月のお彼岸さんの頃何もなかった地中から突然とがった花芽が出てきて10日くらい真っ赤な赤い花を咲かせたあと枯れて跡形もなくなり、10月の下旬位から細い葉が生えてきて寒い冬を越す。冬の霜柱が立つ寒い時にも周りの草は枯れて何もない中で彼岸花だけはひときわ青く茂っていて、春になり周りの植物が芽を出してくる3~4月頃バトンタッチするように枯れてなくなり、9月の花芽が出るまで眠っている。誰に命令されてそのようなサイクルを演出しているのかと思う。

日本シリーズは阪神が4勝3敗でオリックスを下して38年ぶり2回目の日本一になった。戦後周囲の情報から8月にヤクルト戦で死球を受けて左腕を骨折して戦力外になっていた梅野を6、7戦はベンチに入れていた。阪神が快進撃を続けてきて日本シリーズまで進出してきた今阪神正捕手の梅野はどんな気持ちでいるだろうかといつも気になっていた。梅野の代わりに捕手として出場している坂本が打撃でも守備でも大活躍で優勝の立役者の一人になっていた。梅野はリハビリを行ってきたが回復がはかばかしくなく、打撃時、左手でボール捕球時に痛みを感じており、日本シリーズの出場できるような状況でなかった。それなのに岡田監督は梅野をベンチに呼び、足は大丈夫とのことで8回の表先頭打者が出たら代走で出るように前もって言われていた。そのつもりで梅野も準備していたが先頭打者が出塁できなかったので結局梅野は日本シリーズに出場できなかった。でも梅野はうれしかった。来シーズンに向けて新たな闘志を燃やしたとのことである。岡田監督のこの采配、私は梅野のことをずっと気にしていたので有難かったので、岡田監督の今までのことを振り返ってみた。
1985年吉田監督の下でバース、掛布、岡田トリオの一角をしめ初の阪神優勝の立役者になった。
1993年打撃成績不振で阪神を自由契約になり1994年オリックスに移籍することになった直前、週刊誌で不倫スキャンダルが暴露され現役引退の危機にさらされたが、オリックスが密かに内部調査を進めて自称愛人の女が金目当てにでっち上げた事件として女が恐喝容疑で逮捕されて事件は解決してオリックスに入団できたが入団後あまり活躍できずに2年で引退。引退後1996年オリックスの2軍助監督1998年阪神の2軍助監督などを経て1999年2軍監督、2003年1軍内野守備走塁コーチ、2004年星野監督が健康問題で勇退した後を受けて1軍監督に就任した。時に47歳であった。その年は4位で翌年は優勝してロッテと日本シリーズを戦ったが0勝4敗で屈辱の敗戦を味わった。阪神監督を5年間務めたが初年度4位、2年目上記1位、続いて2位、3位と来て5年目は破竹の勢いで勝ち進み2位以下を13ゲーム引き離していたのに土壇場で巨人に優勝をさらわれて責任をとって2008年度を最後に引退した。
その後はプロ野球解説者としてラジオやテレビに出演していたが、2010年には請われてオリックス監督に就任した。成績は初年度5位で2年目4位、3年目は最下位でシーズン途中で首になった。
2013年からは再度野球評論家に戻っていた。オリックス監督を首になってから10年後の2023年に再度阪神監督に迎えられ、初年度からぶっちぎりでリーグ優勝を勝ち取り日本シリーズでも勝って日本一監督に
なった。
こうしてみてくると一回目の阪神監督としては1度リーグ優勝したのに日本シリーズでロッテに4連敗して屈辱を味わい、5年目には13ゲーム離していた巨人に逆転優勝されてしまった。その後のオリックス監督3年間はいい所がなかった。
その後10年して阪神監督に復帰してからは今までのことを反省して、厳しくも思いやりのある素晴らしい采配で、日本一監督になれた。その中で怪我をした梅野に対する暖かい配慮も生まれたのだと思う。





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Last updated  2023.11.11 13:59:57
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