こんにちは。根室振興局地域政策課のヒストリー・ハンター(仮)裕です。隔週ペースで根室管内の遺跡・遺産をご紹介します。
古くから漁場として栄えた根室管内はいろいろな人達が暮らしてきました。その足跡は様々な場所で、いろんなかたちで残っています。古代から近代まで根室の歴史とともに、地域の話題を簡単にお伝えして行きたいと思います。
わたしと一緒にちょっと昔に思いを馳せてみませんか?
前回まで紹介しました続縄文時代や擦文時代の遺構は、昔の根室地域を知るための手段の一つですが、時代が下り、江戸時代になると文字資料も残るようになります。
歴史探訪シリーズ第2回「標津に生きた会津藩士」で紹介したホニコイ陣屋御造日記や第18回「幻の街・キラク」で紹介した加賀屋文書は、代表的なものです。
しかし残念ながら、私に古文書を読む能力はなく、当時の様子を描いた絵はないかと思っていました。
先日、標津にて念願叶い、幕末の標津を描いた屏風を見る機会に恵まれました。
今回は、標津番屋屏風についてご紹介いたします。
2隻1双の屏風
2隻1双のこの屏風は会津藩の星暁邨という絵師が書いたものです。現在では新潟市西厳寺に保存されています。
函館
1隻は、函館を描いています。
中央の山は函館山で、遠くかすかに見えるのが、青森県下北半島です。交易のための船が続々入港している様子が見て取れます。
標津
もう1隻のアキアジ漁をしている屏風が標津を描いたものです。
北海道によくありそうな風景ですが、場所が特定されたのは、神社に立っている幟のお陰です。
神社のアップ
「士部津(しべつ)」という字が見て取れます。右横の碇は、現在でも残っています。
さらに、地元の研究者により、ホニコイ陣屋御造日記や加賀屋文書の記述から描かれた人物の特定までされています。
加賀伝蔵
こちらの方は、加賀伝蔵。
アイヌの通辞(通訳者)から、漁場の支配人になった人物です。詳しくは第18回「幻の街・キラク」を御覧ください。
南摩綱紀
こちらは南摩綱紀。
文久2年(1862年)から慶応3年(1867年)まで、標津で代官を勤めた人物です。彼は、文政6年(1823年)に会津藩に生まれました。学者肌で、代官の任期中にもアイヌの方々に学問を教えていたという記録が残っています。
任期を終え、会津に帰った翌年には鳥羽伏見の戦いが始まり、会津藩も戦場となります。終戦後の明治3年(1870年)、綱紀は許され、明治22年(1889年)には高等師範学校の教授に任ぜられるなど、日本の高等教育に多大な貢献をしました。
著書も多く、日本の地理の教科書「内地誌略」なども記しています。標津についてはどのように書かれているかと思えば、「温泉は標津」とあります。
今でも、標津町では温泉で癒やされることができます。綱紀も仕事の疲れを癒やしたことでしょう。
さて。
難読地名シリーズ第5回でも取り上げられた標津ですが、「標」の字を当てたのは南摩綱紀だと言われています。「標」には「しるし」という意味があります。読みにくい漢字ですが、彼は標津を人生の標と感じていたのかもしれませんね。
参考文献:北辺の会津藩旗(標津町歴史文化研究会 編)
ホニコイ御造日記
標津町では、今回取り上げた屏風やホニコイ御造日記を展示している「知られざる幕末会津藩北辺防衛の歴史」が開催中です。期間は平成25年10月6日までですので、お見逃しなく。
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