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カテゴリ:北区
都心の定義について時折考えてみたりすることがあります。調べさえすれば大した根拠の準備もなしに考察を巡らせているよりずっと容易に解答に辿り着けるのかもしれません。しかし、その解決は便宜的なものでしかないという予感もありますし、識者ごとに異なる主張を述べ立てているような気もします。それに何より都心の定義というものにそれ程に差し迫った問題などあろうはずもなく、単にこうして都内を中心とした呑み屋、喫茶巡りをしていて、余り情報として有用ではないと揶揄されたりもする報告を残していて、それでも最低限の仁義という程でもないけれど、極力嘘のないように努めたいという程度の誠実さは保持していたいのです。だから不用意に用いる都心という単語が実際にどのエリアを指し示しているのか、それとも都心とは具体的な土地を指定などしない専ら観念的な単語に過ぎぬのだろうか。現在のぼくは後者に与するのが適当かと考えているけれどそこには何らの論理性も証拠もないのであるから、曖昧なことこの上ないのです。しかも前者についても便宜上のエリアを設定していたりするのでありまして、つまりは山手線の環状内及びその外縁をイメージしています。外側の輪郭は明確ではなく、ブヨブヨとして不定形なスライム状でありまして、そのブヨブヨはくっついたり切り離されたりと自在に振る舞うと思っていただければ良いのではなかろうか。切り離されたブヨブヨは都心とは別物だけれど何かしらの弾みで組み込まれる事もある。我ながら不器用な喩えでありますが、何となく理解頂けるのではないか。それはともかく都心と隣接しブヨブヨと接していながら頑なにそこに取り込まれる事を尾久という町は、拒絶しているかに思うのです。長くなったのでその理由を述べるのは差し控えておくことにしますが、賢明なる読者諸氏にはすでに自明の理でありましょう―という文章を書いてみたかっただけ―。
大きな店舗ながら外観は古めかしさも感じさせる「砂場」があることは知っていました。近頃は無理やりハシゴしようという意欲も失せつつあるので、蕎麦屋で呑むことにさして躊躇しなくなりました。蕎麦屋でそばを食わぬという選択肢にはまだ躊躇してしまう自分の自意識が残念ですが、中華そばやカレーでも構わぬという程度には精神は鍛えられたのです。店内では若いファミリー一組が食事を終えようとするところで、子供たちは退屈し始めたのかぐずったり騒いだりと落ち着かぬことこの上ないのです。近頃の親ってのは他の客の迷惑を顧みることもなく注意することをしないなあなんてことを憤ってみせるのですが、まあこういう子供連れもOKという寛容なお店には好感を抱くべきかもなんて思ったりもします。品書きを眺めると全般に結構強気な価格設定になっています。この価格で蕎麦前をするだけの余裕はないからお得なセットメニューでやり過ごすことにします。腹にたまることを気にしなければ、ぼくは炭水化物、この場合はカレーライスやそばでも十分に酒の肴たりうるのです。カレーは思いがけずの本格派で悪くないのだけれど望んでいたのはこの味ではないのだよなあ。そばはまず普通においしいかな。店内は外観と異なりこざっぱりとしていて、これは好きな人は気に入って通うのもわからなくもないのです。実際、しばらくしてから夫婦連れが訪れて、贅沢にも蕎麦前で一杯となったのでした。近頃、蕎麦屋では初老のご夫婦をよく見かけます。昔の印象だと隠居爺さんが昼下がりにのんびりやっているという映像を思い浮かべたものですが、遅々としながらも時代は男女平等へと近づいているように感じました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020/03/25 08:30:05 AM
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