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shchan_3@ Re[3]:教育評価と特別支援 「基礎知識+実践」を学ぶ(04/15) 渡辺敦司さんへ >こういう校内論議こそ…
渡辺敦司@ Re[2]:教育評価と特別支援 「基礎知識+実践」を学ぶ(04/15) >「探究し考察することで対象への関心を…
渡辺敦司@ Re:教育評価と特別支援 「基礎知識+実践」を学ぶ(04/15) >おっしゃる通りだと思います。そのよう…
しょう@ Re[1]:教育評価と特別支援 「基礎知識+実践」を学ぶ(04/15) 渡辺敦司さんへ ていねいなcommentあり…

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2024.03.24
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カテゴリ:教育論・教育問題
教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」2月12日の記事ー改訂諮問の年に③「学習評価」の根源的な捉え直しを​-は考えるべき重要な問題提起を含んでいると読みました。心身の余裕が乏しかったこともあり反応できていませんでしたが、このたびごく簡単にコメントし、「学習評価」・「教育評価」に関する過去の拙文を紹介します。​

> 1)学習評価は、何のためにするのか――。教育の専門家である教師に、そうした問いをするのは愚問だろうか。

> 2)しかし定期テストの廃止すら世間を騒がせるだけでなく教育現場にも賛否両論を巻き起こす状況を見るにつけ、本当に評価の専門性が浸透しているのか疑わしく思っている。

> 3)評価のための評価では、自分たちの首を絞めるだけの徒労でしかない。

> 4)そのための形成的評価​〔註〕​と、授業評価こそ重視されなければならない。もしもその障害になるとするなら、見直されるべきは指導要録の制度や入学者選抜の方だ。

> 5)世間にも、数値による評定信仰がまかり通っている。教育界自身もそうだろう。それを乗り越えなければ、本当の意味で誰一人取り残さない教育は実現しまい。

〔註:教育目標に照らして、児童生徒の学習が成立しているかどうかを確認しながら学習指導を行うという意味での「教授・学習過程で行われる確認作業」を「形成的評価」と呼ぶ。〕

 以上、引用した項目に番号を勝手につけました。いずれも全くもっともな指摘だと思います。私の場合(幸運にも)「内地留学」の期間(一年)を得たこともあり、教育評価を学ぶ機会に恵まれたのですが、そうでなければ「評価の根底的な問い直し」をめざした教育学の試みなど理解しないままここに至った可能性は大きいと考えます。(一般的にも「評価の専門性が浸透しているのか疑わし​い」​と感じられるのは当然のこと。)​​

 また、4)では「形成的評価」の重要性が指摘されていますが、全くそのとおりでしょう。さらに言うと​子どもは、学校卒業後も伸びていかなければならない存在」であるという意味においては、子ども自身に「形成的自己評価の力」(目標に照らして自らの学びと成長を確認しつつ、学びの在り方を自身で問い直していく力)をつけていくことが大切だと考えます。
 以下の二つは「教育評価」「学習評価」を学び要約した内容と、それをもとにして書いた「論文」です。よろしければご一読ください。  
​​

 

2011.12.30  学力とは何か? ~中内敏夫『教室をひらく』~ 

2012  4月 ​あるべき学校評価と教育実践評価

 以下は「あるべき学校評価と教育実践評価」の抜粋・紹介です。

​ 教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~

教育学者の中内敏夫は、その著『教室をひらく』のなかで、以下のように述べている。

「教育の思想は(…)『評価もまた教育でなければならない』という原則をつくりだした。」

「指導は大切だが評価はつけたしだという考え方がある。この場合、評価というのは、学期のしめくくりにやる子どもの成績に3、4、といった評点をつける仕事という考えが前提にある(…)。 

しかし、評価はそういう場面にだけ顔をだすのではない。授業のひとこまひとこまを進めるにあたって、『わかりましたか』という質問をしない教師はいない。たとえ声を出さなくとも、有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取ってゆこうとする。(…)それとともに他方では、教材の当否を検討しなおす。授業の目標を再検討する。さらにすすんで学校の在り方を考えなおす。必要ならば、教育政策の変更を要求する。(…)この働きかけている対象(生徒)に対して問いをだし、答えを回収し、その答えを計算に入れたうえで次の働きかけのプランをたてるという、教育的な授業(営み)に不可避の部分こそ、評価の過程なのである。」① 

 そして、戦後当時の文部省も、「評価」の本質を上記で中内が主張するように考えていたことが知られている。②

 このような評価は何を基準に行われるのだろうか。「教育評価」-「目標準拠評価」という言葉があるように、評価の基準は教育・指導の目標である。

〔例:二桁の加算ができる、中国の封建社会の特徴が説明できる、遠近法を使える等々〕

 従来用いられていた相対評価が「必ずできない子どもがいるということを前提とする非教育的な評価論である」、「排他的な競争を常態化させて、『勉強とは勝ち負け』とする学習観を生み出す」、「『何を勉強したのか』という問いは希薄化していく」、「『相対評価』のもとで学業不振が起こったとして、その責任は子どもたちの努力不足、才能不足に帰せられてしまう」③として批判され、「すべての子どもたちの学力保障を目指す」目標準拠評価が公的に採用されていった、というのが近年の流れである。

さて、このような目標準拠評価(「到達目標論」)の実践的・理論的成果について、中内は以下の点を挙げている(概略)。 

1)到達点が明確⇒相対評価と序列主義をのりこえる条件が得られる

2)不明確だった発達段階を、目標に向かう段階として具体的にあらわせる

3)到達できなかった場合の教材の研究や指導過程の工夫が教師の明確な課題となる

4)「教材精選」の目安が得られる など。 

もちろん学力が目標に達しない場合はあるだろう。そこで大切なことは、「目標に達しない原因を、本人の資質ではなく学習の条件の方に求め、これを改造していくことである。」つまり、「『子どもの学力が目標に到達していない』という事実を、教材や指導過程の誤りをただし、教室定員や教育費に見られる弱点を正していく方向に活用する」④、というわけだ。

3、評価を行う力 ~教育実践評価の視点~

 中内は、「到達度評価を教育過程改造に活用する」という発想(=教育評価)には一種のオプティミズム(楽観主義)がある、と述べる。簡単にいうとそれは、「教えられうる目標(到達点)は客観的に定めることができる」、そして「適切で妥当な評価は可能だ」、という意味での楽観主義である。⑦ 

中内も言うように、「オプティミズムはリアリズムと結びつかなければ強い力にならない」。これまで長期にわたって採用されていた相対評価法は、現実の問題として、ある種の「客観性」および「実用性」を持っていたからこそ支持を得てきたのである。 

 確かに、標準学力テストや「模擬試験」の結果に振り回されることによって、見失われがちな大切な要素(「平和で民主的な社会の形成者」になっていく上で子どもたちが学びうる大切な力)が教育には数多くある。(例えば、クラスメートと話し合いながら「生活文脈」の中で発生するリアルな課題に取り組んでいく総合的な力。)しかし、仮に、そのような大切な力・学び体得した成果が目に見えない(客観的な評価ができない)とすれば、教育を改善していく展望も見いだせない、ということになるのではないか。 

 教育評価の立場からは、そのような疑問に応えるために、さまざまな評価の方法が示されてきている。〔客観テスト(授業単元で最も重視すべき教育目標を子どもたち全員が理解できたかどうかを把握するために作成されたもの)、自由記述式(「ある概念に関係のある言葉をいくつか選び出し、配置し、矢印の付いた線で結ぶ」など、知識間の関係づけをみる方式)、パフォーマンス評価(知識を応用・活用・総合することを要求する「生活文脈から生じる課題」に挑戦させ、作品をつくったり実演させることによって評価する)、観察や対話による評価(そのためには子どもの姿を通じて教育実践を生き生きと把握し語る力が不可欠である)、日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や評価記録を蓄積して評価する(ポートフォリオ評価)。〔作品等を題材にした教職員と子どもたちとの「検討会」が行われ、子ども自身の「自己評価能力」を高める過程を含む〕⑧ 

 このような様々な方法を駆使した「教育評価」は、当然、以後の教育実践の問い直しや教育条件の整備、当初設定していた「目標の見直し」にも活用されることになる。

​そして、「教育批評」(例えば日本における研究授業後の研究協議や「実践報告」に基づいた実践分析)を通して「(評価をするための)鑑識眼」は洗練されていく。⑨このような「力」によって、教職員は子どもたちの学習活動の中から「意味のある活動や反応」を評価し、次の教育実践に活かせるようになるのである。(「目標の問い直し」も含めて)
〔以上抜粋、以下略、関連する註のみ転載〕

①中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 135頁( )内は引用者

②田中耕治『教育評価』岩波書店 35頁

 戦後初期の文部省による「教育評価」の説明(概略)

1)評価は、児童の生活全体を問題にし、その発展をはかろうとするものである

2)評価は、教育の結果ばかりでなく、その過程を重視するものである

3)評価は、教師のおこなう評価ばかりでなく児童の自己評価をも大事なものとして取り上げる

4)評価は、その結果をいっそう適切な教材の選択や、学習指導法の改善に利用し役立てるためにおこなわれる

5)評価は、学習活動を有効ならしめるために欠くべからざるものである

③田中耕治『教育評価』岩波書店 47・48頁

④中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 49頁

(※)中内敏夫は『教室をひらく』のなかで、現場で作成する「指導要録」の様式を改善して、そこに記述される「教育評価」の集積を、指導要領の問い直しの根拠にすべきことを主張している。

⑦中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 52頁

⑧田中耕治『教育評価』岩波書店 147~162頁
⑨2024年3月付記 「洗練された鑑識眼」を身につけ、学習の成果を何らかの形で
評価・表現し子どもたちに返していくことは、現状において容易ではないという実感はある。

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Last updated  2024.04.20 20:11:02
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Re:渡辺敦司「学習評価」の捉えなおし について(03/24)   渡辺敦司(一人社説) さん
しょうさん、お待たせしました。玉稿に触発されて、愚論を展開してみました。ご高覧いただければ幸いです。

http://ejwatanabe.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-9fc651.html (2024.03.30 14:43:28)

Re[1]:渡辺敦司「学習評価」の捉えなおし について(03/24)   shchan_3 さん
渡辺敦司(一人社説)さんへ
 
 締め切りに追われるなど、本務にお忙しい中応答いただきありがとうございます。私の方は転勤でバタバタする年度末、所用で県外に出かけておりました。貴ブログ記事、読ませていただきましたが、もう少し落ち着いて再読したいと思います。
(2024.03.31 23:10:19)


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