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殿上人日記

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2019年10月27日
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カテゴリ:東京の旅


​9月の台風15号に続いて​、19号が関東地方に
上陸し、関東、甲信越、東北地方などに多大な
被害をもたらした。岐阜県中津川市でも北部の
付知町では、民家や車庫の屋根やハウスが破損
したそうである。そしてお隣の信州では千曲川の
氾濫で、新幹線が水没もしたが




南信州も伊那谷と木曽谷を結ぶ権兵衛トンネルの
道路が大きく陥没をしてしまった。我が家でも
清内路を越えて飯田に入り、伊那谷を北上して
伊那から権兵衛トンネルを使い、木曽路を南下
するドライブコースが定番である

国道本線 長さ5~6メートルにわたって落下 権兵衛トンネル入り口付近




木曽から伊那、伊那から木曽の通勤通学、買い物
などの生活面は勿論だが、中央道から伊那インター
下車での木曽方面への観光面でも、大きな打撃に
なるのではなかろうか。台風19号は大規模災害
復興法に基づく「非常災害」に指定されたそうで
同法適用は2016年の熊本地震以来2例目だとか




この国道361号「権兵衛トンネル」入り口付近の
崩落も含めた全国6カ所の自治体管理道路の復旧は
被害規模が大きく、高度な技術が必要となるので
地方自治体では対応が困難と判断、国の主導により
復旧されるそうだ

道路復旧を国が代行 権兵衛トンネル付近や東御「海野宿橋」




旦那がよく出張に出かける宮城県の工場も冠水を
したそうだ。そして、その深い傷が癒えないうちに
今週も、再びの豪雨が関東から東北地方を襲って
千葉県などは各地で冠水し、交通網も寸断された
私の次兄一家も千葉県佐倉市にいるので、様子を
聞いたら、同窓会で東京にいたそうで




だったら大丈夫だったのかな?と・・・。ブログの
皆さんも一連の豪雨などで、ご被害などはなかった
でしょうか? このように次兄が千葉県にいるので
成田空港を利用をするときは前泊、後泊をさせて
貰ったりとか




まだ子供が小さな時は、九十九里で海水浴とか
鴨川シーワールドに一緒に出掛けたりと、以前
から千葉の観光地には少しは出かける機会も。
一昨年の秋も、NHKの歌番組の観覧に当たって
姉と東京に出かけたついでに、佐倉市の次兄の
家にも遊びに出かけた




そこで昼に次兄の打ったソバなどを食べて、夜は
外食でもてなしてもらっての次の朝。次兄の家を
後にして姉と二人で電車で出かけた先は、前から
行きたいと思っていた、江戸情緒の残る佐原市だ




って、千葉県北東部に位置する佐原は平成の
大合併で香取郡栗源町、小見川町、山田町と
合併し、香取市となったそうで、佐原市では
なくって、今は「香取市佐原」が正しいが




うちのあたりも平成の大合併で、周囲の市町村と
一緒になって、人口はあまり増えていないが、
面積がべらぼうに増えている。中津川市の西南の
阿木から東北の加子母などは、車で1時間以上は
軽くかかるんじゃないかと思うし




お隣の恵那市もテレビで紹介されると、たいていは
岩村や明智で、そこが恵那というのは元の恵那市の
出身者にはまだ違和感がある。たぶん佐原などでも
江戸時代より栄えた街なので佐原を自治体の名前と
して残したかったんだろうな~なんて勝手に推測を
する




まぁ天下に名高い香取神宮にもあるように、香取
という地名はとても由緒あるものなので、それは
それで誇りになっているのかも。ウィキペディアに
よれば
>「かとり」という地名の語源については、
>「梶取」「神鳥」「鹿取」など諸説ある。




>「香取」という表記は、現存の文書中最も古くに
>みえるのは、日本に現存する最古の和歌集である
>『万葉集』「第11巻2436番」に寄物陳思(ものに
>よせておもひをのぶ)として、「香取海(香取の
>海)」と記されている。




更に、佐原という地名は
>佐原市の歴史は古く、古代から香取神宮が鎮座し
>神官の祭典の時に使用する土器「浅原(さわら)」を
>造って納めていたので「サワラ」という地名が
>ついたともいわれている。




>「サワラ」という地名は「浅原」、「左原」、
>「砂原」、「沙原」などとも書かれるが、
>建保6年(1218年)の古文書に「佐原」と
>いう文字が最初に登場する。なお、「佐原」を
>「サワラ」と読むのは珍しいほうであり、
>「サハラ」と読み間違われる場合がある。




その歴史も古く
>古代の佐原の生活を示すものとして、下小野
>貝塚(縄文中期)、大倉南貝塚(縄文後期)、
>橋替貝塚(縄文後期)などが発見されている。
>また、牧野と津宮では丸木舟が見つかっている。




てな感じで、古くから人が住み着いていた
ようだ。西日本などでは京都のような町と
言う事で、小京都があちこちに存在をする
ように、江戸のように栄えた町としてここ
佐原は小江戸と呼ばれていた




北総の小江戸、水郷の町と呼ばれた佐原は
「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町
江戸まさり」とも唄われた商家町で、利根川
水運の拠点として、醸造業や商業が大きく
発展をした




そして、そんな商家の旦那が隠居をしてから
日本全国をまわって、偉業を成し遂げたのは
江戸後期の伊能忠敬で、彼が測量によって得た
膨大な資料は、国宝に指定をされているそうだ




それだけ凄い事を、ご隠居になってから
始めたというのが、またすごい。興味の
あるところなどを、ウィキペディアから
抜粋して、伊能忠敬の人生を紹介します




>延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡
>小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の
>名主・小関五郎左衛門家で生まれた。幼名は
>三治郎。父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現・
>横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家
>には婿入りした。三治郎のほかに男1人女1人の
>子がおり、三治郎は末子だった。




>6歳のとき母が亡くなり、家は叔父(母の弟)が
>継ぐことになった。婿養子だった父・貞恒は兄と
>姉を連れて、実家の小堤村の神保家に戻るが、
>三治郎は祖父母のもとに残った。10歳のとき、
>三治郎は父のもとに引き取られた。




>三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り
>合いのもとを転々としたと言われている。
>常陸の寺では半年間そろばんを習い、優れた
>才能を見せた。また17歳くらいのとき、
>「佐忠太」と名乗り、土浦の医者に医学を
>教わった記録がある。




>ただしここで習った医学の内容はあまり専門的な
>ものではなく、余興の類だったといわれている

>下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)にある
>酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家と)
>では、当主の長由(ながよし)が、妻・タミと
>1歳の娘・ミチを残して亡くなった




>そのため伊能家は親戚の手で家業を営むことに
>なった。伊能家・神保家の両方の親戚である
>平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の
>現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は
>若いながらもいい仕事ぶりを発揮した。




>そこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、
>親族もこれを了解した。その際大学頭の
>林鳳谷から、忠敬という名をもらった。
>宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬と
>ミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を
>継いだ




>このとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の
>夫との間に残した3歳の男子が1人いた。忠敬は
>はじめ通称を源六と名乗ったが、のちに三郎
>右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした。
>忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用
>した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ
>5,000人という、関東でも有数の村であった。




>舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか
>人や情報も多く行き交じった。このような佐原の
>土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと
>考えられている

長年にわたり様々な事業や、地域もまとめあげ




>妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で
>2人目の妻を迎えたが26歳で死去。寛政2年、
>忠敬は仙台藩医である桑原隆朝の娘・ノブを
>新たな妻として迎え入れた。寛政6年(1794年)
>忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由
>(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、江戸で
>暦学の勉強をするための準備にとりかかった。




>そのさなかの寛政7年(1795年)、妻・ノブは
>難産が原因で亡くなった。佐原の町は昔から
>大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を
>受けていた。いったん洪水が起きてしまうと
>田畑の形が変わってしまうため、測量して
>境界線を引き直さなければならない




>忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術を
>ある程度身につけていたが、それはこうした地で
>名主などの重要な役に就いていたという経験に
>よるところが大きい。寛政7年(1795年)、50歳の
>忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家を構えた




>同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。50歳の
>忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。弟子入り
>したきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が
>実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬が
>その理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答え
>られず、唯一回答できたのが至時だったからだと
>いう話が伝えられている




>弟子入りした忠敬は、19歳年下の師・至時に
>師弟の礼をとり、熱心に勉学に励んだ。忠敬は
>寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をして
>いたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)と
>いうあだ名で呼ばれていた。




>忠敬は、自ら行った観測により、黒江町の自宅と
>至時のいる浅草の暦局の緯度の差は1分という
>ことを知っていた。そこで、両地点の南北の距離を
>正確に求めれば1度の距離を求められると思い、
>実際に測量を行った。そしてその内容を至時に
>報告すると、至時からは「両地点の緯度の差は小さ
>すぎるから正確な値は出せない」と返答された。




>そして「正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地
>ぐらいまでの距離を測ればよいのではないか」と
>提案された。忠敬と至時が地球の大きさについて
>思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの
>圧力が強まってきていた。寛政4年(1792年)に
>ロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して
>通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸
>などの事件が起こった。




>至時はこうした北方の緊張を踏まえたうえで、
>蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に
>願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成
>するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおう
>という狙いである。そしてこの事業の担当として
>忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念された
>が、測量技術や指導力、財力などの点で、この
>事業にはふさわしい人材であった




>忠敬一行は寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅
>から蝦夷へ向けて出発した。忠敬は当時55歳で、
>内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、下男2人を連れての
>測量となった。富岡八幡宮に参拝後、浅草の暦局に
>立ち寄り、至時宅で酒をいただいた。千住で親戚や
>知人の見送りを受けてから、奥州街道を北上しながら
>測量を始めた。




>第一次測量にかかった日数は180日、うち蝦夷滞在は
>117日だった。なお、後年に忠敬が記した文書に
>よれば、蝦夷滞在中に間宮林蔵に会って弟子にした
>とのことであるが、このときの測量日記には林蔵の
>ことは書かれていない。11月上旬から測量データを
>もとに地図の製作にかかり、約20日間を費やして
>地図を完成させた




>蝦夷測量で作成した地図に対する高い評価は堀田正敦の
>知るところとなり、正敦と親しい桑原隆朝を中心に
>第二次測量の計画が立てられた。今回は蝦夷地は測量
>せず、伊豆半島以東の本州東海岸を測量することに
>決められた。地図は第一次測量のものと合わせて、
>大図・中図・小図の3種類が作られた。そのうち大図・
>小図は幕府に上程し、中図は堀田正敦に提出した




>享和2年(1802年)6月3日、忠敬は堀田正敦からの測量
>命令を、至時を通して聞いた。測量地点は日本海側の陸奥・
>三厩から越前まで、および太平洋側の尾張国から駿河国
>までで、これと第一次・第二次測量を合わせて東日本の
>地図を完成させる計画である。また、8月に起きる日食も
>観測するよう指示された




といった感じで、日本全国あちらこちらを測量をして
正確な地図を次々と作成していったのだ。ところが
>文化14年秋頃から喘息がひどくなり、病床につく
>ようになった。それでも文化14年いっぱいは、地図
>作成作業を監督したり、門弟の質問に返事を書いたり
>していたが、文政元年(1818年)になると急に体が
>衰えるようになった。そして4月13日、弟子たちに
>見守られながら74歳で生涯を終えた




と言った訳で、「伊能忠敬」の生涯で興味を
持った所などを抜粋して、ウィキペディアを
丸写しさせていただきました。加藤剛さん
主演の映画「子午線の夢」もあるので興味の
ある方はご覧ください




小江戸、佐原の町並み、いかがでしたでしょうか
自然豊かなイメージの千葉県には、このように
素敵な歴史の町並みもあります。今秋の台風・
豪雨で被害を受けられた皆様に、心よりお見舞い
申し上げます




       2017年9月19日に千葉県香取市佐原で撮影

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最終更新日  2019年11月08日 10時17分02秒
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