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カテゴリ:歴史・散歩
聖徳太子といえば、法隆寺。
法隆寺といえば、夢殿。 ひなびた斑鳩の里は、飛鳥からもちょっと離れ、 当時推古天皇の摂政だった聖徳太子は、 斑鳩の里に引っ込んで寺を建て、仏教にいそしんだ。 ・・・みたいに、思えてしまうんですが、 果たしてそうだったのか? 以前から飛鳥時代の歴史には興味があったのですが、 5,6年ほど前に梅原猛の「聖徳太子」という小説をきっかけに、 けっこうこの時代の本を読みまくりました。 それで、 一番衝撃的だったのは 「斑鳩は交通の要衝」という考え方です。 聖徳太子は、仏教を取り入れる、遣隋使を派遣する、など 外国との交渉をとても重要視していた人です。 飛鳥は山に囲まれた天然の要害で 攻められにくいという意味ではいい場所なんだけど、 内陸だから外国との通信が難しい。 当時の交通と言えば、水運。 当たり前だけど、文物は船でやってくる。 波の静かな瀬戸内海を進み、難波の港に着いた外交使節を、 飛鳥の都までどうやってお連れするか。 それは、川です。 飛鳥に流れる川は、飛鳥川、曽我川、高取川。 曽我って、つまり、蘇我だよね。 高取川は、曽我川と合流、 飛鳥川、曽我川は、やがて大和川と合流します。 それが、斑鳩のあたりなんです。 法隆寺駅近くを通る富雄川も、 おなじ付近で大和川に注ぎ込む。 つまり、 聖徳太子は、 法隆寺(斑鳩)=富雄川により、 藤原京のあたり(天皇家の地)=飛鳥川、 川原寺(蘇我の地)=曽我川を 大和川を使って瀬戸内海に結びつけていた! もっといえば、 都(飛鳥)にいるお歴々より、 一足先に、難波からの情報を受け取ることができた。 正に、 法隆寺は政府の出先機関だったわけで、 聖徳太子は自らここに張り付き、 世界情勢に日夜目を配っていた、というわけです。 (法隆寺に隣接、川の近くに、 称徳天皇離宮ではないかという上宮遺跡も発見されています) 斑鳩で政務を行った聖徳太子は、 外国からの使節を迎えるにあたって 迎賓館を作ることにします。 「ようこそおいでくださいました。 長い船旅、さぞかし疲れたことでしょう。 まずはこちらでごゆるりと」 船から下りてすぐのところに、 閲兵式とかパレードとかが華やかにできる施設がほしい。 それで建てたのが、四天王寺です。 四天王寺は、難波宮とも目と鼻の先。 時代が多少下りますが、 やはりこのあたりは重要視されるべき土地だったのです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一度は聖徳太子の通った道を行ってみたい! ・・・といっても、今さら船旅で川下りはできませんから、 その川沿いを走っているJR関西本線に乗って、 「法隆寺駅」→「王子駅」→「天王寺駅」と電車の旅をしてみましょう。 その近さを実感できるかもしれません。 私は関東に住んでいますので なかなかチャレンジする機会がありません。 このGWも、奈良・法隆寺までは行きましたが、 大阪まで足を延ばすことはできずじまい。 この週末に大阪に用事ができたのをもっけの幸いと、 いよいよ念願の「法隆寺から四天王寺の旅」にでかけることとなりました。 出発は明日です。 楽しみ、楽しみ! *参考 「ウオーキングナビ・奈良・大和路散歩」 「歴史街道を行く~京都・大阪・奈良・兵庫・和歌山・三重・滋賀・福井」 「分県地図(27)大阪府~自然とくらしのすがた」 (3冊とも昭文社より発行) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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