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2006年01月31日
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カテゴリ:読書

飛行機の中で読んでたのが、この本。今回の旅にぴったりの本やった。何があっても大丈夫
「きょうの出来事」をやってはった姿からは、上品なお嬢様育ちの人を想像してたけど、全然違うねんなあ。
台湾で結婚した両親の3人目の子どもとして、1945年にハノイの野戦病院で生まれ、すぐに敗戦。引揚者として翌年5月、無一文で帰国。両親の故郷である大分県中津と新潟の小千谷、長岡で少女時代を過ごします。
仕事一筋のお父さんは、3歳の頃から東京の女性と暮らし始め、そちらに子どももでき、お母さんは編み物とお父さんからの仕送りで子ども二人を育ててきはりました。(お姉さんと弟さんは幼くして病死してしまいました。)でも、お母さんはお父さんのことをいつも立派な方だと心から思い慕い、子どもたちに一切悪く言わない。
「あなたたちが小さい頃、一番教えてあげたかったことは前向きであることのすばらしさだった。心を前向きにして、すべてに対して心の準備をしておくということ。全てを良い方向に考えていけば、厄災など殆ど防ぐことが出来るということを」
走るのが遅かった櫻井さんががんばった時、ご近所の方にこう言いはってんて。
「よしこが頑張りましてね、駆けっこで二番になったんです。本当に頑張ったんですよ」
うしろから数えて二番やったそうです。
「どんなことでも誉めて、認めて、勇気づけて育ててくれた母に感謝するばかりである。」と書いてはります。
中学三年の修学旅行の時、父に会いに行ったにもかかわらず、ほとんど相手にしてもらえなかったり、父が再婚でそこにも二人の娘がいたことを知ったりと、いろいろあったけど、長岡で楽しい高校生活を過ごします。東京の私大に合格したのですが、学費の当てにしていた父親が日本料理店を開いてホノルルにおり、東京の家では学費を預かっていないと言われてしまい、ハワイに行ってお父さんの世話をしながら、ハワイの大学に行くことになるのです。
ハワイに着いたその日から、600人のパーティの後片付けの指揮。父のそばにいるマダムと呼ばれている女性の存在。大学に行きたいと言うと、なぜ日本の大学に行かなかった、なぜ東京の家にお金を出してもらわなかったのかと言う父。
大学と仕事を両立させるという約束でやっとハワイ州立大学に入学することができます。午前中か午後一番の授業を受けて、飛んで帰宅し、夜中まで店を手伝い、深夜2時、3時に寝てという生活を続けていくなか、借金の保証人になった関係で、父の日本料理店の経営権がそばにいた女性マダムのものになってしまいます。
しばらくして父から、東京の家の娘が結婚して夫婦でハワイに来ることになったから、姉妹としてつきあうようにと言われます。どうしても納得できない櫻井さんは自立する道を選びます。
父は日本に帰って結婚すればいいと主張し、どうしても大学に残って勉強するという櫻井さんは勘当されてしまいます。お財布には5ドルしかなかったそうです。
大学の留学生アドバイザーの教授に相談すると、“You‘ll be fine!”「君が努力さえすれば、問題はみんな、いつか、解決するよ。大丈夫だよ」とホストファミリーを探してくれます。夕食の仕度と後片付けをする代わりに部屋代と食費が免除されるという仕組みです。
しばらくして、授業料が払えないと相談に行くと奨学金制度を教えてもらい、自分の使えるお小遣いが欲しいと相談すると、キャンパスのカフェテリアで働き、さらに学生ビザのまま週に20時間のアルバイトの許可をもらう道を教えてもらう。そのうち、日本の母に時折送金できるまでになっていきます。
社会学の授業では「日本の少数民族かブラクピープル(被差別部落)についてまとめては」とアドバイスされリサーチしたり、多国籍の留学生と共に学ぶなかで、自分が日本人であることに強烈に目覚めさせられ、専攻をアジア史にしたのも、あまりにも日本のことアジアのことを知らない自分に気づいたからだそうです。
4年の夏休み、日本に帰ろうか北米大陸を見ようか迷った櫻井さんは、お母さんの勧めもあり、アメリカ大陸バス旅行をすることに。その時の手紙には、次のように書かれていたそうです。
「お母さんも行きたいくらいだけど、いまはそれは出来ません。だから、お母さんやお兄さんに、よしこの伝聞を是非、伝えて頂戴。
 寂しい想いに沈み込みそうになったら、未来への夢を膨らませなさい。寂しさを、未来の可能性につなげてくれるのが、大きな夢ですよ。よしこちゃん、忘れないようにね。人間は前向きになってさえいれば、本当に何があっても大丈夫なのですから」
ディズニーランド、ヨセミテ国立公園、イエローストーン国立公園、シアトル、バンクーバーアイランド、トロント、ケベック、ニューヨーク。グレイハウントの長距離バス切符で知り合いの家と安い宿に泊まりながらの旅は、大自然やいろいろな人との出会いがあり、充実したものだったそうです。
無事卒業して、1年間勉強を続けた後、帰国した櫻井さんは、日焼けして米国流のお化粧、爪を長く伸ばし、手づくりのミニスカート姿で、まわりにびっくりされたそうです。
このころ、近所のお店を手伝っていたお母さんは、お店に買い物に来たお年寄りから「大人しい人だね。影が薄いね」と言われたんやて。それを中身がないことだと考えたお母さんは、以前にも増して本を読み、お茶のお稽古に励み、60歳から日本舞踊も始められ90歳を超えた今も続けてはるそうです。他人の批評を、自分を育てる糧に昇華させていく姿勢に、櫻井さんはさらにお母さんを尊敬します。
紹介されて始めたジャーナリストの助手をしていくうちに、ジャーナリズムに魅せられフリーの記者をめざします。最初に出会った女性海外特派員ポンドさんとの出会いで米国流ジャーナリズムについて教えられ鍛えられ、アジアのジャーナリスト、ラチーカ氏の手法にも影響を受けていき、ラチーカ氏の後任としてPFA(アジア新聞財団)の東京支局長も務めます。
オーストラリアの記者と結婚し離婚したことも少し触れられてます。
34歳から16年間「きょうの出来事」のニュースキャスター務め、その後10年間は物書きの仕事に専念しようと思いはったそうです。お父さんは1980年に亡くなられ、「きょうの出来事」の櫻井さんをご存じないそうや。
「何があっても大丈夫」と励まし続けてきたお母さんの人生記のようにも読めました。2001年にお母さんと二人でベトナムを訪れた時から、お母さんはお父さんのことをポツリポツリと語り始められ、それがこの本を書くきっかけになったそうです。
櫻井さんは、お母さんに「どうして誰のことも悪く言わないのか」聞いてみたことがあるそうです。
「幸せはね、みんなの前にあるの。見つけることが出来るかどうか、それは気持ち次第なの。大事なことは、神様はどんな人にも幸せになってほしいと思っていらっしゃること。だから、お父さんや女の人が不幸になればいいなんて考えて悪口を言うことは、お母さんには出来ないのです。お父さんも女の人も、皆、幸せでいることがいいことなの」国立現代美術館
言論活動に専念する10年が終わろうとしている今、櫻井さんが次に何に取り組まれるのかが、とっても楽しみです。

ナム・ジュンパイクさんが1月29日に73歳で亡くなりはったそうです。韓国出身のビデオアートの先駆者で、東京大学を卒業してはるんやて。韓国の現代アートの場では必ずこの方の作品を見かけました。ご冥福をお祈りします。

七海ちゃん、無事マイアミに着いたかなあ、元気かなあ・・・。

今日のラッキーくじも、両方ハズレやった。

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最終更新日  2006年02月01日 07時21分06秒
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