テーマ:単車のこと(11)
カテゴリ:自動車
2016年度の二輪車販売は39万台の見通し。 「随分少なくなった」とみるのか、「まだそんなに売れているのか」とみるのかは、見方で変わる部分。 いずれにしろヒドク少ないことに変わりはない。 (日本二輪事情、2015年版) オートバイは、大量生産によるコストダウンが有効な工業製品。 特に低価格の原動機付自転車(原付1種)は量産効果が重要。 =50ccスクーターの生産や開発 2016年10月5日 時事通信 二輪車で国内首位のホンダと2位のヤマハ発動機が原付き一種(排気量50cc以下)の二輪車事業で提携することが5日、分かった。 ヤマハ発が台湾で行っている50ccスクーターの生産をホンダ熊本製作所(熊本県大津町)に委託するほか、宅配業務などで活用する電動スクーターを共同開発することを検討している。 …(略)… あまりにも小さくなった国内二輪市場を理解しているので、理屈の上、ビジネスとしては提携を理解できる。 が、HY戦争の時期にバイクに乗っていた身としては、両者が生産・開発提携する事態に隔世の感を強く感じさせる。 【HY戦争】 HY戦争は1979年から1983年ごろまでとされる。 二輪車業界で万年2位だったヤマは発動機が、首位独走状態のホンダに仕掛けたとされる企業間のシェア争い。 宣戦布告や休戦協定は存在しないが、1979年、ヤマハ発動機の第2代社長、小池久雄による「チャンスが来た!オートバイ業界の盟主の座を狙う」との宣言が戦線布告にあたるとされる。 米国の工場進出に注力していたホンダの河島喜好社長は売られた形のケンカを買い開戦、首位維持に全力を尽くした。 両者ガップリ四つの戦いは価格競争を激化させ、定価の半額で販売される原付も出現。 1982年、ホンダは月の数より多いエンジンを発表すると豪語し、1年間で45モデルを発売。 ヤマハは袋井工場が生産開始。 国内のみならず米国での在庫も急増し、1983年、ヤマハ発動機は企業存続の危機となるレベルに達していた。 1月末、年頭記者会見でヤマハの小池社長はHY戦争の敗北を宣言。 本田宗一郎の長男、株式会社無限の本田博俊社長(当時)は、HY戦争を「馬鹿げたもの」と断罪した。 ユーザーの信頼を失ったオートバイ市場は衰退すると予言した。 指摘の通り、原動機付自転車第一種(50cc以下)の販売台数は1982年の270万台をピークに減少し、10年後には三分の一になった。 2015年の排気量別販売台数は、372千台。 内訳は原付一種193千台、原付二種94千台、小型(~250cc)48千台、250cc超35千台。 企業、市場の健全性を大きく損ねる破壊的な行為は「戦争」と名付けられるに相応しい。 勝者なき戦いの結果が、スズキ、カワサキを加えた4大メーカの本社がある、の日本国内二輪市場。 開戦前夜の二輪 ホンダ ロードパル(1976) ヤマハ パッソル(1977) HY戦争中に登場した今でも気になる二輪 ヤマハ RZ250(1980) タウニィ(1980) ベルーガ50(1981) パッソル2(1982) TZR250(1983) ホンダ CB250RS(1980) タクト(1980) CBX400F(1981) モトコンポ(1981) VT250F(1982) MVX250F(1983) スズキ GSX1100S KATANA(1981) GS650G(1981) ジェンマ50(1982) RG250ガンマ(1983) カワサキ Z250FT(1979) Z400FX(1979) AR50(1981)
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最終更新日
2016年10月11日 07時35分44秒
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