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カテゴリ:哲学・思想
疑わしきは断定せず
私自身が、ブログコミュニケーションにおいて「大切にしている“基準”」があります。その基準・作法は自分で記事を書いたりコメントをする場合に心がけるだけではなく、他者に対しても強く要求していることが、このたび強く自覚できました。 7月13日の記事『ブログでの発信責任と「批判される側」の姿勢』におけるコメントのやり取り(特に後半から最後のあたり)で実際に私自身が発している言葉「相手の意図は相手の心の問題だから断定すべきでない」がそれです。 実際、私の目から見て「その基準に抵触している(つまり他者の意図を断定している)」と思われる記事や、「断定」を根底にもって書き込まれている「強い意見・コメント」に関して、「それは問題ではないか」「配慮が必要ではないか」という意見を強く出させていただきました。 他方で「その基準」に触れない記事やコメントに関して妥当でないと思われる部分があった場合には、本人のブログ記事のコメント欄や私自身がアップする記事の中でいわば「やわらかく」指摘させて頂いています。 従って、傍から見れば「ある人には厳しくある人には甘いのではないか」と見えるのも無理からぬことだったかもしれません。 私がこのたび「意図を断定すべきではない」ということが自分の中で重要な基準となっていることを明らかにするのは、単なる「弁明」というよりも、積極的な意思を込めています。かなり考えたのですが「この基準」は単に自分自身の判断基準というよりも、ブログコミュニケーションにおいて「できるだけ多くの人が共有したほうがいいのではないか」と考えるからです。 そのように考える根拠のひとつは「立場を入れ替えてみればわかるのではないか」ということであり、もうひとつは(前者と深く関連しますが)「外から人の意思を断定しない」ということが相手の人格・さらには人権を尊重する作法なのではないか、と考えるからです。 確かに、私たちはブログコミュニケーションに限らず、常に相手の意図を想像し汲み取りながら言葉のやり取りをしています。そのことなしにはコミュニケーションは成り立たないといっても過言ではないでしょう。 しかしながら、他方で相手の体験や意思はまさに「その人自身が感じ取っている(あるいは創造する)体験であり」「外から完全に覗き込むことのできないその人自身の“心の問題”」でもあるのです。 先ほど私は「立場を入れ替えてみれば」と書かせていただきましたが、もし仮に自分自身が次のように断定されたらどうでしょうか。「人物Sは常に自己正当化と自らの考えを乱暴に押し付けることを意図しており、その目的のためには絶えず論敵の主張を歪曲しねじ曲がった屁理屈をでっち上げる」 あえて極端な場合を例示しましたが、仮に私自身が「自分の意図はそうではない」と否定しているにもかかわらず、外から「断定され」しかも「記事やコメントの形で不特定多数に向けて発信」されたとすれば憤りを感じないではいられないでしょう。 第二に、「人格や人権の尊重」という観点からこれまたやや極端な例をあげさせていただきます。 それは、警察による「容疑者」への事情聴取と情報公開についてです。 仮に、状況証拠から考えて「極めて疑わしい」と考えられる場合・事例であっても「物的証拠や“本人の自白”」も得られていない段階で「容疑は濃厚」などという情報を外部に流すとすれば、明らかに「人権侵害」として責任が問われることになります。(松本サリン事件など、じっさいにありましたが、そんな情報が流され報道されることは実に暴力的なことです。) 確かに警察の事情聴取・情報公開と「ブログでのコミュニケーション」を同列に扱えるものではないでしょう。しかしながら、現実にネット上の中傷で「人が死ぬ」という事態が起こったこと、「ブログ記事であれコメントであれ不特定多数に発信しているのだ」という事実を片時も忘れてはならないと思います。 ネットの場合、発信責任(どこまでがよくてどこからがいけないか)が新聞や書籍等の場合と比較して曖昧になりやすいからこそ、私たちはいっそう注意・自覚することが大切だと思うのです。 たとえ「極めて疑わしい」と考え「ほぼ間違いない」と確信していたとしても「本人が否定する意図(沈黙・黙秘している場合でもそうです)を「彼・彼女はこのようにもくろんでいる」と不特定多数に発信するべきでしょうか。そこには暴力的な意味はないでしょうか? 相手の人格・人権を尊重することの大切さを真っ向から否定する人はいないでしょう。しかしながら特に何らかの言説を批判する時に「意図の断定」が行われる場合があります。しかしながら、そのように「意図を断定して立論しないこと」が相手の人格・人権を尊重し相互の信頼に基づく「ブログコミュニケーションを創造していく」にあたって大切なことではないでしょうか。 この記事の一行目に書かせていただきましたが、「疑わしきは断定せず」ということを私は訴えたいのです。「批判すべきだ」と判断した場合においても、あくまで「言説の内容や言説がもつ意味」、「理論が提示されればその理論そのものの問題点」を批判すべきであると考えます。 意図そのものを対象としたい場合であっても、前後関係から「このように思われても仕方がない」といった形で表現を慎重に選ぶことが求められるのではないでしょうか。 それこそが、批判する相手の人格を尊重し「通じる言葉」を創造していくために大切な「批判の作法」であると考えるものです。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに (yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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